星の沈む海へ



「ねぇ、ねぇ、水支…久し振りに、どっか行こうよ。」

午後の講義を終え、学生達が次々と講堂を後にしている。
その波の中にいた水支は、女友達の声に立ち止まった。
夏の到来を思わせる昼間の熱気が、少し落ち着いた夕方。
気だるそうに振り返ると、彼女は落胆した表情を見せる。

「あ〜ん、もぅ…ノリが悪いんだからっ!最近の水支、付き合い悪いわよ!」
「あ〜、悪い…なぁ〜んか、ノレないんだよねぇ。この次、埋め合わせするからさっ。ねっ?」

とっておきの笑顔で、首を傾げて手を合わせる、お願いのポーズ。
すると、彼女は「しょうがないんだから…必ずよ。」と言いつつ、水支の頬に軽く口付ける。
そのまま去って行く彼女の後姿を見送って、校門の方へ視線を向けると、その影にシルバーに輝く車体が駐車してあるのが見えた。
どこか、見覚えのある車…そこから降りてきた人物は、やはり水支のよく知る人物だった。

「先…輩……。」

駆け寄る水支を、大月は静かな笑みを浮かべて待っていた。

「どうしたんですか、先輩…こんな所で…。」
「お前に用があって…今から時間はあるか?ちょっと、付き合え。」
「あ、りますけど…あの…?」
「どうした?乗らないのか?」

いつになく強引な大月の誘いにうろたえながらも、水支は黙って助手席に乗り込んだ。
シートベルトを締めるのを確認すると、大月は静かに車を発進させた。


大月は何も言わずに、ただ車を走らせている。
どこへ連れて行かれるのかも解らずに黙って乗り込んだ水支だが、とうとう痺れを切らして口を開いた。

「あのぅ…先輩?いったいどこに行こうとしてるんでしょう?」
「あぁ、ちょっとな…。」

そう言ったまま、また無言で走らせるだけだった。
陽も静かに沈もうとしている。
あれから街を抜けて、寂しい峠道へと差し掛かっていた。

「先輩、もしかして、怒ってます?オレ、なんかしちゃいました?」
「…別に…そうだな…しいて言えば、頬の口紅、か。貰うのは結構…だが、そのままにしておくのは、どうかな…。」
「やっぱ…怒って……まさか、そこらで放り投げられたりしないですよねぇ…一人で帰れ!とか、言いません?
 こんな山ん中で降ろすのはなしですよ…。」

思わず、右頬の口紅を拭いながら冗談交じりにまくし立ててみるが、大月は表情を変えずに運転している。
この人をとんでもなく怒らせたんじゃ…水支は急に不安になる。

「あの…。」
「…どうした?やけに疑い深いな……。お前はそんなに、慎重だったか?それとも…そんなに私は信用がないのかな…?」

微かに皮肉な笑みを浮かべたような気がした。
からかってるのか?……大月の真意が読めなかった。


道は相変わらず寂しい山道が続いている。
陽はもうすっかり落ちて、藍に染まる空に星がちかちかと瞬いている。
随分、遠くまで来たらしい。
会話の無い状態が苦痛だった水支は、ひとりごとのように呟いた。

「どうして、あんな時間に先輩があそこにいたんです?…まだ、仕事中じゃないんですか?」
「取引先から、直帰にしてたんでな。打合せを早めに切り上げた。」

水支のひとりごとに、大月は簡潔に答える。
もともと言葉数の多い人ではないが、聞かれたことに対する答えはきっちり返すところが大月の実直さを現していた。
だが、やはりそこで会話が終わってしまうのだ。
いつもなら他愛も無い話を続ける水支だったが、今はそういう気にもなれない。
仕事を早めに切り上げてまでの用事とは…最悪な事ばかりが、水支の心を占めている。


今までの山道ばかりの景色が急に開ける。
真っ直ぐ続く道の先には、ゆらゆらと揺らぐ水の気配がする。

「先輩…ここって、海……?」

大月の車が、人気の無い駐車場へと滑り込んだ。 海水浴のシーズンにはまだ早いため、この時間にここにいる人影はまばらだ。

「ちょっと、でるか…。」

車を降り、スーツ姿の大月が砂浜へと向かう後ろを、水支はあわてて追った。
昼間の暑さは影を潜め、海から吹く風は涼しさを誘う。
砂浜に足を取られながらも波打ち際まで歩をすすめる大月を見ていた。
その向こうには、広々とした海原が広がる。
空には大小の星が散らばり、空との境界である水平線が曖昧にほのかな光の線を描く。
少し欠けた月明かりに、波の揺らめきが煌いていた。
夜の海…久し振りに見るその景色に、思わず見惚れていた。

「なかなかいい景色だろう…。」

ふいに声を掛けられて、波音にかき消される声を聞き漏らさないように大月の側に寄った。
大月の視線は、海を見つめたままだった。

「たまに、仕事を終えてから車を走らせて来るんだ。気が、紛れる…。」
「先輩ほどの人でも、そんなことするんだ…ストレス発散…ですか?」
「あまり買いかぶるな…これでもしがないサラリーマンだよ。」

そう言いながら、大月は苦笑する。
少し視線を落として、眼鏡をそっと胸ポケットにしまいこんだ。

「先輩、お疲れですか?最近、忙しいんじゃ…。」
「まぁ、な…。だが、お前にもこの海を見せたくてな。」
「オレにですか?どうして…。」

それから、しばらく無言で佇んでいた大月が、おもむろに口を開いた。

「ここの砂浜は、毎年少しずつ波に浸食され、狭くなってきてるそうだ。…何か手を打たなければ、そのうち完全に飲まれるらしい。」
「先輩…いったい、何を……。」
「水の恩恵を受けるお前にとって、海はその源のようなものだろう。この砂浜は……私達に似ていないか?」

水支には何も言えない…何となく、大月の迷いを感じ取ってしまったから。
この人は、迷い…恐れているんだ。

「私は、知らぬ間にお前に飲まれているかもしれないな…。」

冗談めかしてはみたが、それが大月の本心。
水支の気持ちを受け止めかねている大月にとって、この砂浜が波に浸食される様は、自分の姿を見ているような気分だった。
だが、完全に拒絶するほどの嫌悪を抱いていないのも事実だ。
その迷いが、いつも水支を不安にさせる…それも解っているのに。
大月は、自分が口に出してしまった言葉に、後悔していた。

「すまない…こんな話をするつもりで、お前を誘ったわけじゃなかったんだが…どうも、感傷的になってしまった。」
「…波は、何十年もかけてこの砂浜を侵食した…先輩ほどの牙城を切り崩すなんて、何年かかるか……。ま、ゆっくりしますよ。
 だから…これ以上、防波堤なんて作らないでくださいよ。空見君のテトラポットで、もう、手一杯なんですから…。
 それに、先輩がいないと、オレ、どこに流されてくのか解らないし…。」
「江…藤……。」
「さ!明日も仕事なんでしょう?早く帰らないと、きついっすよ〜。」

水支は、つとめて明るい声で話を切り上げようとしていた。
そうでもしないと、自分の存在が大月を追い詰めてしまいそうだったから。
本当は、この人が何も恐れないように、強く抱きしめてしまいたいのだけど。
大月は風に乱れる髪を押さえながら、困ったような笑顔を向けていた。



高速を快調に飛ばす帰り道、水支は恐る恐る問い掛ける。

「そういえば、今日の本題はなんだったんですか?さっきの話じゃ…ないんですよ、ね?」
「…どうも、空見とは勝手が違うな…。」
「???…どういうことです?」

水支には、なんのことだかさっぱり解らない。

「お前の誕生日が、そろそろじゃなかったかと思ったのだが…。」
「へ?オレの、誕生日…ですか?」
「…違うのか?それで、ここに連れてきたかったのだが、私の勘違いか…。」


水支は、口には出さなかった。
―気持ちだけで、充分です…本当はもう少し先なんですけど……。


END



はたして、ハニーのS2000は、峠仕様車なんでしょうか?
…いや、問題はそこじゃないんだけど…。
水支のBD記念に…と、思ってたのに、やっぱり重い展開に。
なんでかねぇ、迷いすぎ?うちのハニーって…。
ちなみに、海に行く道が山の中なのは、私のすんでる所から海までが山道だからです。
高速に乗って海に行くなんて、思いつかなかった…。

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