社の玄関から外に出ると、もうすっかり空は濃い藍色に染まっていた。
そういえば、最近はいつもこのくらいの時間になっている。
明るいうちに帰ったのは、いつ以来だっただろうか。
上空で瞬く星の中、真円に満ちるにはあと数日程必要な月が、ビジネス街に立ち並ぶビルの隙間から、乳白色の柔らかな光りを
そそいでいる。
「十三夜…というところか。」
「あと何日かで満月です。中秋の名月ですね。」
誰もいないものと呟いた独り言に聞き覚えのある声が返ってきて、私はうろたえていた。
見上げていた視線を戻すと、そこには月の明かりを背中から浴びて、にこやかに微笑む少年がいた。
「知風くん!どうしたんだい、こんな時間に?塾はもう、終わっているだろう…。」
「大月さんに、会いにきました…って言ったら、びっくりします?」
「……!」
少し首を傾げて私を見上げる知風の笑顔に、言葉が出なかった。
こんな時、私は随分と間が抜けた反応をしてしまう。
彼は私の反応を愉しんでいるようで、学習能力が無いのかと思うぐらい何度も驚かされた。
稀に甥の空見よりも幼く見えてしまう時がある知風は、いたずらっ子のようにくすくすと笑っている。
「こんな時間じゃ、家の方が心配するだろう。もう帰ったほうがいい。送って行こう。」
照れ隠しに咳払いを一つ、そういう私を見て知風はまたくすくすと笑った。
だが私は、彼のこの笑顔で何もかも許してしまうのだ。
「今日は車じゃないんですね。」
「あぁ、今日は天気も良かったからね。いつも車では身体が鈍ってしまうし…っと、こんな事を言うと、また笑われてしまうかな。」
中学生である知風の前で、つい、こんな事を言ってしまう自分に、苦笑してしまう。
並んで歩く知風はやっぱり笑顔だったが、ふるふると頭を横に振った。
「いいえ、大月さんらしいです。それに、僕…大月さんが車じゃなくて良かったな、って。」
「え?」
「だって、その分、大月さんと長く一緒にいられるから…。」
「知風君、君は…。」
立ち止まってしまった私を、数歩先にいる知風が振り向いた。
知風の背後には、彼に付き従うように、微かに欠けた月が妖しく輝いている。
「さっき言ったこと、本当ですよ。僕、大月さんに会いに来たんです。」
彼は、真っ直ぐに私を見ていた。
後ろから月明かりに照らされている知風は、誰をも惑わすような妖艶な瞳で微笑んだ。
「僕、塾が終わって月を見てたんです。そしたら、急に大月さんに会いたくなって…。おかしいですね。」
知風は、自らを嘲笑う…そんな笑顔ですら、人を惹きつける力がある。
それは彼自身が持っているものなのか、彼を照らしている月の魔力か。
「月も後押ししてくれたから、だから、来たんです。」
月を仰ぎ見て瞳を細める知風が、全身で月が放つ魔性の力を吸収しているように見えた。
私は、その姿に魅入られていたのかもしれない。
時間が過ぎていくにつれ、刻一刻と月は満ちていく。
その変化は目に見えてわかるほどではないが、確実に力は増していくのだろう。
自分が抱いていた知風のイメージは、控えめで清廉な少年だった。
これほど積極的で、感情に任せるような少年ではないと思う。
ただ、あの恍惚と月を見上げている姿に、思い当たる言葉が浮かんだ。
ルナティック・シンドローム…月の満ち欠けに影響を受けやすい人がいるというのを空見から聞いたことがある。
知風もそういう話が好きだというし、感受性が強そうな少年だから思い込んでしまうこともあるかもしれない。
こういう場合は、どう対処したらいいのか…空見とは、勝手が違う。
「どうかしましたか?困った顔、してる…。」
「え?あぁ…いや、なんでもないよ。」
「うそ…眼鏡に手を掛けているもの…困った時の大月さんのクセでしょう?」
無意識に眼鏡に手を掛けていたのを、見透かしたように知風は笑う。
そんな仕草を見せるといつも済まなそうに俯いていた彼の姿は、今はどこにも見られない。
「困らせるつもりは無いんです。僕はただ、今なら自分の感情に正直になれそうな気がしただけ。
だからといって、いつもは我慢してるとか…そういう訳じゃないんですよ。
ただ、月が力を蓄えていくこの時期は、僕も開放される気がするんです。
月がその力を僕に与えてくれるから。」
十三夜の月光に包まれる知風は、なんとも言い難い雰囲気を漂わせる。
この少年には到底敵わない…たとえ、この月が姿を隠したとしても。
私は、彼の深層に潜む月の魔性に溺れていくのを感じた。
私は引き寄せられるように、再び知風の隣へと歩み寄った。
そんな私に、立ち止まっていた知風も歩調を合わせてまた歩き出す。
「この間、江藤先生に会って、言われました。」
「江藤が?一体、何を言われたんだい?」
「僕って、年上キラーなんですって。」
「あいつは…!なんて事を……。」
知風がちょっと思い出したとでもいうように切り出した話題は、自分の良く知る後輩のことで…。
今度会った時にしっかり釘を刺してやらなければ、とため息をついた私に、知風は、言った。
「…落ちて、みますか?……大月さんも…。」
隣で見上げる知風の瞳が揺らぎ、口元はゆっくりと弧を描いていく。
「……いけない、子だな……君は……。」
私は、ゆっくりと眼鏡を外し、胸ポケットにしまいこんだ。
おぼつかない視界の中、天頂に浮かぶ真円の月を見たような気がした。
ルナティック――。
私はすでに、彼の中の狂気からは逃れられないことに気付いていた。
END
<2005.9.14>
「憂鬱の天使」これで完結です…。
ちーちゃんがすっかり暴走してます。
振り回されるハニーと水支、というのが、この話の全てではないかと(^_^;)
ちなみに、ハニーBDのつもりで書いてたのですが、だんだんと方向が変わってしまったようです(苦笑)
いきなりですが、星野架名先生の作品が好きです。
その中に良く出てくるのが、月齢14.9の不思議な出来事。
月の魔力は、不思議世界への入り口ではないかと。
最近、お目にかかれなくて、少し寂しいです…。
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