「ねぇ、先輩…。」
伏せられた睫は、震えもしない。
「もしかして、誘ってます?」
整えられた眉を、しかめもしない。
「いつまでも、目を覚まさなかったら、オレ…何するか、わかりませんよ。」
呆れたように吐き出されるため息も、その唇から零れることはない。
「聞いてますか?先輩…。」
閉ざされた瞼が、開かれる、気配は…ない。
お願いだ、先輩…しかめっ面でも、説教でもいいから……。
お願いだから…はやく、目覚めてください…。
****
あれから毎日、先輩のもとへ訪れたが、様態は変わることはなかった。
いまにもその瞼をあけてくれるのでは…この手を握り返してくれるのでは…そんな期待を抱いているのに。
相変わらず眠ったまま、ただ、時間だけが過ぎていった。
それは、ゆっくりと、でも確実に、先輩が衰弱している事を意味していた。
「水支!」
病院からの帰り道、呼びとめられた声は聞き慣れた従兄弟の声。
「よぉ、火足。お前から声かけてくれるなんて、珍しいねぇ。雨でも降るんじゃ……。」
「茶化すな、バカ水支……ちーから聞いてんだ、大月さんの、こと。」
「…そう、か……。」
軽い調子のオレの態度に少し苛立ちを見せ、火足はその突き刺すように真っ直ぐな視線を向ける。
顰めた眉間の皺をより深くして、唇を真一文字に引き締める。
精悍といえば聞こえはいいが、一歩間違えればケンカを売っているようにしか見えない。
だがそれは、オレを咎めるとともに、気遣ってくれているのだと、長い付き合いでわかっている。
火足は小さく息を吐くと、部活で持ち歩いている背中の矢筒から、一本の古びた矢を取り出した。
「あの時の、師範に気を込めてもらった矢…最近、また変な奴等が鬱陶しくなってきたし。
ちーから大月さんの事を聞いた時、アンタに必要じゃないかと思って…。」
「火足…。」
それは以前、ハタレ魔との戦闘の時に先輩を護ってくれた守護矢―天羽羽矢だった。
オレと同様、不浄の気配を察知しやすい火足にも、先輩の異変の原因がオレ達の過去世に関係していると感じたのだろう。
もともと感じやすかった火足の感覚が、ハタレの出現により一層鋭敏になってしまったのは、オレと近しい血流の所為かもしれない。
あれから暫らく感じられなかった魔民の気配に気付き、持ちあるいていたのだと言う。
「それと……頼まれた…卜占のばーちゃんに………これ…。」
ポケットから無造作に取り出したそれは、小さく古ぼけた木製の…人形。
「それは…!」
それは、先輩が剣の師範から授けられた、災厄を退けるという形代―天児。
なぜそれを、巫女の婆さまが…!
「大月さんがあんな風になる前の日に、ばーちゃんのところに行ったみたいだぜ。
…それで、預かってほしい、って。」
「前の日、だって!」
「あの人も、気付いてたんだろ。自分が、ヤバいかもしれないっての。」
先輩は、気付いていたのか…忍び寄ってくる、何かに。
だったら、何故!どうしてオレに一言も言ってくれなかったんだ!
どうしてオレは、その異変に気付くことができなかったんだ!
思うほどに、悔しさがこみ上げる。
噛み締めた唇が紅く滲むほど、強い後悔に襲われた。
火足はそんなオレを見つめて、グッと握り占めた拳を震わせた。
「そんなツラ、してんじゃねえよ!
ヘコんでる暇があるなら、他にしなきゃなんないことがあるだろ!
大月さんが、どんだけ覚悟決めてたか、わかんねえのかよ!」
火足の言葉が、胸に響いた。
先輩の…覚悟…。
「ばーちゃん、言ってたぞ。
こんなに禍々しい気が溢れてきてる時に、この守護符を手放すのは相当の覚悟が必要だ。
はっきりとは言わなかったけど、きっと、アンタがどうにかしてくれるって。
そう信じて預けたんだろう、って!
そんな大月さんを、裏切んのかよ…この、ヘタレ水支!」
「…言ってくれるねぇ、火足。」
悔しいけど、お前の言う通りだ。
本当にオレは、バカで、ヘタレで、情けねぇ…本当に、大笑いだ。
思わず零れた嘲笑に、火足は表情を険しくする。
軽くあしらわれたと思ってるかもしれないけど、これがオレだってわかるだろ?お前なら…。
昔から、お前には怒られっぱなしで…感謝してるよ。
「やる…んだろ?」
「…まぁね。」
闘う術を持たない『モリ』であるオレでは、魂返しなんてできるかどうかわからない。
それでもオレは、やらなければならない。
だから…オレを呼んでくれ!
…先輩!
****
今日の講義はどうしても抜けられなくて、頭の中をすり抜けていく教授の声も漫ろに、オレは手の中の2つの球に意識を集中させた。
潮干玉・潮満玉―昔から実家の蔵に眠っていた潮の満ち干きを司る神器で、あの時も先輩を護った守護珠だ。
もう二度とこれを手にすることはないと思っていたのに、まさか再び、こんな日が来るなんて。
先輩は、いち早くハタレの存在に気付き、婆さまに天児を預けた。
火足だって、何か不穏な気配を察知して、天羽羽矢をオレに託した。
だけど何故、先輩が感じたハタレの存在を、オレは気付くことが出来なかったんだろう。
オレは、身近で起きている異変に何も気付かずに、この土地を離れていたのだ。
その疑問に答えてくれたのは、実に意外な人だった。
「江藤、すまんが研究室に寄って行ってくれないか。話がある。」
講義が終わって、すぐにでも先輩のところに行かなければと意気込んでいたのに。
他の人なら、適当にあしらうことも出来た。
だがオレには、どうしてもその声を無視することは出来なかった。
「お前は、聞いておかなければならない話だ。
動くのは、それからでも遅く無いと思うぞ。」
いつになく真剣な面持ちでそう告げると、オレの返事を待たずに白衣を翻す。
美人がマジな顔すると、妙に迫力が増すものだ。
それ以前に、彼女に逆らえるはずもないのだけど。
あの時のオレ達の闘いを知っている、数少ない理解者である彼女だから。
いつもの見慣れた研究室、この時間帯ならまだゼミ仲間がたむろしていても不思議ではないのに、今は誰一人いない。
彼女が人払いしたということは…オレが聞いておかなければならない話とは、やはりあの闘いに関係しているということ。
息詰まるほどの静寂を断ち切ったのは、苦悩を滲ませた呻くような深い溜め息だった。
「…実はな…お前を発掘に同行させたのは、大月氏からの依頼だったんだ……。」
「なっ…!」
思いも寄らない、内容だった。
先輩が、あえてオレを自分から遠ざけていたと言うのか。
「江藤…実際に行ったお前ならわかると思うが…あの遺跡は、一種の聖地と呼ばれる土地だ。
あらゆる邪気が打ち消され、浄化されるという言伝えがある。」
そういえば、と、思い出す。
あの場に降り立った時に感じた、清浄感。
纏わり付く不浄が、一掃された感覚…まるで、先輩と初めて出会った時のような、心地よさ。
「以前、大月氏と飲みに行った時に、その土地から新たな遺跡の痕跡が見つかり、調査の依頼が来ているということを漏らしてしまった。
もちろん、言い伝えの残る聖地であるということも。
そんな話をしたこともすっかり忘れかけていた時だ…あの土地の調査隊で人手を必要としていると聞いたのは。
それでオレ様は、お前を推薦した。」
「そこで、どうしてオレが…?」
民俗学を専攻しているオレには、遺跡の発掘は全く関係ないとは言えないが、それよりも他に人選があったはずなのに。
オレの問いに、彼女は髪をかきあげ、観念でもしたように重い口を開く。
「大月氏の、言葉、だ。
あの人は、お前が四六時中何かを感じすぎていることが、心配なんだろ。
まったく、差向かいで惚気られるオレ様の身にもなってくれ…。
でも、その言葉が、やけに頭に残っていた。
だから、お前を行かせたんだが…今、思えば、大月氏はこうなる事を予感していたのかもしれんな。」
どうしよう…泣きそうだ…。
口元を、手で覆った…思わず叫びそうだった。
オレは、『モリ』なのだから…いや、そんなこと度外視したって、何があっても護るのだと。
ずっと思ってたのに、なんてことだろう。
こんなにも…護られている……あの人に…!
「その土地の事を話した時に、大月氏が言ったんだよ。
『江藤の気も、休まるだろうか。』
ってな。」
****
日も落ちて徐々に薄暗さを増してくる道を、病院へと重い足取りで向かう。
タバコに手を伸ばそうとして、ポケットの中の小さな珠に触れた。
仄かな温かみを感じるそれは、研究室を出る時に渡されたものだった。
「ただの紛い物だと思っていたが、効果があるというのはお前達が実証済みだろう。」
そう言って渡された、小さな珠。
「検証結果は、レポートで提出しろよ。それまでは、単位はお預けだ。」
「そんなぁ…。」
「頼むから、オレ様から飲み友達と生徒を奪ってくれるな。」
「ホント…センセって、男前すぎ。思わず、惚れちまいそうですよ。」
「そうか?だったら、いつでもオレ様の次席を空けて置いてやろう。」
いつもの軽口と自身ありげな笑みで、彼女はオレを見送った。
オレの手元には、あの時手にしていたものが、再び集まりつつあった。
何故か、釈然としない思いを抱えていた。
まるで、誰かの思い通りに動かされているような、わだかまりが残った。
先輩…あなたは、こうなる事を知っていたんですか?
これは、あなたの望みですか?
それとも……。
あなたの、オレの、宿命への抵抗ですか?
それはまだ、オレにはわからない。
END
<2008/9/23>
久しぶりの、まほろば更新。
本当なら、ねぼすけなハニーをそろそろ起こしてあげなきゃ…。
そう思ってた、ハニーのBDになるはずでしたが(^_^;)
起きる気配はさらさらないし、まだまだ終わりが見えなくなってる(苦笑)
こうやって、どツボにハマっていくんだ…。
前へ / 次へ
戻る