ゆったりとした足取りで、確実に春が近づいてくる。
それと同じに例えるのも悪くはないだろう。
この春、水支の進路がようやく決まった。
大学生活も5年目、就職活動に本腰を入れる気配も全くなかった水支の様子に、こちらばかりやきもきし焦らさせられていたが、やっと肩の荷が下りた心持ちがする。
「――せっかくだ、何か進学祝いでも」
「そんな気は遣わないでくださいって、センパイ」
我が事のように喜ぶ埴史にいささか呆れ気味の水支は、晴れて春から院生となる。
願書を出したことも、真面目に卒論に取り組んでいたことも、何も知らされていなかったために、合格の知らせは寝耳に水だった。
「遠慮などお前らしくないな」
常ならば、あれやこれやと家族の愚痴を呟いてみたり、レポートが出来ないと泣きついてみたり、そんな風に埴史に縋るのが水支という後輩だった。
ようやく自立する気になったのなら喜ばしいことだ――そう思う一方で、何やら寂しい気もする。
こんな例えは水支には聞かせられないが、懐いていた犬が急に素っ気なくなったような。
「いいだろう、こんな機会は二度とないからな」
「ま…ぁ、そうですけどね」
髪を掻き上げ微苦笑する――水支はどこか、埴史から、距離を置こうとしているかのようだ。
穿ち過ぎでなければ…ふたりの間に、以前はなかった人ひとり分程の隙間が見える。
埴史のよく知る水支なら、自分から祝いをせびっても不思議ではなかっただろう。
「だったら何か考えておけ」
「…オレの欲しいものなんて、ずっと決まってますよ。もう、10年も前から」
そう語る横顔は何処か醒めて、すでに諦めの面持ち。
訝しげな態度に埴史が首を傾げると、益々――理解出来ない呆れ顔を浮かべ、
「センパイ」
「なんだ」
「欲しいって言ってもいいんですか?」
「――何を…」
いつもの軽佻さの中に垣間見えるのは微かな埴史への皮肉…?
「オレは、センパイが、欲しいです」
「…ふざけるのも大概に、」
「本気ですよ。オレ、何回も同じこと言ってるでしょ?」
教え諭すような口ぶりに、全てが自分の中ですとんと納まった気がした。
どうせ端から無理だと承知の上で水支は、埴史を牽制しようとしている…?
「江藤」
「――どんな風に受け取ろうとセンパイの自由です。オレはセンパイが欲しい。もっと色んなこと知りたいし、もっと色んな顔が見たい。でもね?センパイは…そんなこと絶対望んでないでしょ?」
「当…たり前だ。どこの世界に、自分をもらってくれなどと差し出す人間が」
「オレは、もしもセンパイがオレのこと欲しいって言ってくれたら、喜んでっていくらでも差し出せますよ」
「バ…」
罵倒しかけ、ハッとして思い留まった。
かつてこの男が埴史の前に自らの命を投げ出した事実を忘れてはいない。潔いほどにあっさりと。
決して己を軽んじているわけではないとわかっていても、到底受け入れられるものではなかった。
「いいんですよオレは、センパイ馬鹿で」
「胸を張って言うことか」
「ハイ、それだけは自信ありますよー。なんてったって10年の片想いですから。筋金入りです」
「………」
茶化すような水支の言葉に、ふたりの関係性の変化を見るようだった。もはや以前と同じような先輩と後輩ではない。水支は自らそれを捨てようとしている。
それを寂しいだとか思う資格は、おそらく埴史にはない。
「私は」
「――センパイ?」
「到底お前のようには」
「……当たり前ですよそんなの。センパイが気に病む必要はないです」
「江藤…」
「なんですか?妙な顔して」
「いや、…物わかりのいいお前は不気味だと思ってな」
ひどっなんて言って、大袈裟に水支は笑ってみせる。コレ、が無理をしているかどうかさえ、今の自分には見極めることが出来ない。
「…祝いはまた日を改めるとして、これから食事でもどうだ。今日くらいは奢ってやるぞ」
「あー…そう、ですね…」
曖昧に笑って言葉を濁す。いつもの水支なら、来るなと言っても着いて来ただろうに――
そこで漠然とながら悟った。
水支の気持ちに応じられない埴史はもはや、役に立たない存在に成り下がるのだということ。
先輩としての確固たる地位はすでに意味を失くしている。この男にとって。
「――センパイ?」
「いや、なんでも…」
だから何だと言うのだろう。水支が離れていくのならそれまでのことだ。
「気を遣わせてしまって…すみませんオレ」
「気など遣った覚えはない」
「でも、」
「ないと言っているだろう」
思わず声を荒げてしまってから、水支の表情にハッとして己の迂闊さを悔やんだ。
不可解な焦りが、この男に起因していることは間違いのない事実。けれど、
「私は…」
――私は、何を…?
「お前を二度も失いたくはない」
「センパイ…?」
「……それだけだ」
「どういう意味ですか…?」
埴史の腕の中で、かつて一度失われた命。あの瞬間の、恐ろしいほどの冷気は未だ埴史の深いところを凍らせている。
「お前が離れていくというのなら私は」
――「私は…」?
「センパイ、オレはもう消えたりしませんよ…? そりゃ100パーセント保証できるかって言われると…」
「そうではない。いや、――もうこの話はいい。忘れてくれ」
水支が誤解したのを知って、血迷った発言を全て消去してしまいたかった。
もう遅い。いくら手を伸ばしても水支には届かない。余りに冬が長過ぎれば、暖かい季節が来ることも信じられなくなるだろう。
「忘れろってそんな」
「勝手なことは承知だ。しかし私は、」
「――センパイ」
埴史の眼の前に、すっと右の手が差し出された。
「………」
「オレの勘違い…勝手な思い込みだったら殴っていいです。ねぇセンパイ、センパイは…オレのこと好き…?」
「…っ」
瞬時に沸騰しそうなほどの熱が、滑り落ちながら胸の内を焼いていく。
単純なひと言は、重大な意義を投げ掛けた。
すぐそこに留まっている水支の右の手を、視界から外すことが出来ない。
水支が思うのと同じに、欲しいと思うのならこの手を取ればいい。
けれど。
「センパイ」
「…私には、わからない」
「――」
卑怯な逃げだと受け取られるのが必然とも言えた。
だが水支は、ゆっくりともう一方の腕も埴史に向かって差し出した。掌を上に向け、広げたふたつの手で、
「じゃあ…これならどうですか?」
奇妙な提示にを埴史に寄越した。
「今、オレはこの手で、センパイを抱きしめることが出来る」
「………」
「センパイがどうしたいか決めてください」
どうしたいか、なんて決断できるわけがない。厄介な性格がそれを許さない。
「江藤――」
「はいっ」
ほぼ条件反射で水支はピッと直立不動の姿勢を取る。
「お前…案外意地が悪いな」
「へっ…?」
暫し固まって、謎掛けにも似た埴史の言葉を飲み込もうと幾度も瞬きを繰り返した水支はやがて、ふふっと笑みを漏らした。
さすがに自称埴史馬鹿であり、10年の付き合いなだけあってこの男はきちんと埴史の言わんとするところを察したらしい。
「どうせなら『慎み深い』くらい言ってくださいよ、センパイ」
ずっと我慢、してきたんですから――そう呟くと、やや躊躇いがちに、そぉっと埴史の上体を抱き寄せる。
煙草の匂いが強く立ち上って、いい加減禁煙したらどうだとか、ついいつもの調子で口から出そうになるけれど、些末なことなどどうでもよくなるくらい大きな何かが、埴史の全部を覆っている…そんな気がしてひとつ大きな呼吸と共に眼を閉じた。
「センパイ…」
埴史以上に水支も強張っているのが、触れている場所から伝わってくる。
デカい図体で緊張するようなタマかとも思うが、それを言うのは酷かもしれない。
水支にとってこの10年はおそらく、気が遠くなるほど長かっただろう。それを思えば。
「センパ…イ…?」
ぐい、といささか強引に両手で水支の顔を掴み、こちらに向けさせた。
かつて、剣の相手の懐に飛び込むのは得意だった――そんな記憶が蘇る。
眼を丸くしている水支に考える隙を与えず、口唇を押し当てた。
「――」
武骨すぎるだとかムードがないだとか、そんな文句は聞く気はない。
うわっと小さく叫んだ水支に、再び今度はきつく抱き竦められて、肩越しに見た世界にに雪解けの気配がした。
-了-
【9th anniversary】
Copyright(c)2012 Monjirou
残夢 のこんのゆめ 様
<2012/4/8>
てるたがいつもお世話になってます「残夢」様が9周年を
迎えられました。おめでとうございます!
記念企画でリクエストをお願いしましたら、こんな素敵な
SSをいただいてしまいましたvv
今までの先輩後輩という関係から、少し前進しそうな気が
しませんか?
これからの2人も、見逃せないですよね。
まだまだ「まほろば」好きですよぅv
もんじろうさま、本当にありがとうございました。
これからも、よろしくお願いします。
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