明智光秀・謀反の真相
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明智光秀はなぜ本能寺の変で信長に対して謀反したのか?
昔から言われているのが信長の仕打ちに対しての恨みという怨念説です。
光秀怨念説
①八神城事件
八神城事件とは、明智光秀が八上城を攻めていた時、光秀の生母を人質として送り込み、降伏するなら命と領土は保証すると約束します。そして、当主の波多野秀治と秀尚は降伏し投降。信長のもとに送られたが信長はなんと二人を殺してしまう。それを知った秀治の家臣らが光秀の母親を殺害してしまうという事件。
②斎藤利三事件
光秀は稲葉一鉄の家臣であった斎藤利三を召し抱えたが、信長は「利三を一鉄に返せ」と光秀に命じます。これに逆らった為に手討ちにされかかる。
③恵林寺焼亡事件
武田勝頼を攻め滅ぼした時、武田軍に味方した恵林寺を焼き払えと信長は命令します。光秀は、それに反対。その時に信長が激怒した。あるいは、「武田氏を滅ぼせたのも、われらの努力があってのこと」と言ったところ、「お前ごときが何をした!」と信長に殴られた!
④家康饗応事件
徳川家康と穴山梅雪を安土城で接待するよう命じられたが、その時に用意した魚が腐っていたため、信長が激怒!中国地方出陣を命じられた・・・。
⑤長曾我部氏攻略事件
四国の長曾我部氏との和平を任され、そのように動いていた光秀。しかし、信長はその後、方針を変え、長曾我部氏を敵視。光秀の努力も水の泡・・・。
これら怨念説は、実は江戸時代から言われ続けている光秀謀反の憶測です。しかし、1950年頃になると怨念説は史料的に信ぴょう性にかけると言われはじめ、光秀野望説が有力になっていきます。
光秀の野望説
本能寺の変が起こる少し前、羽柴秀吉(豊臣秀吉)は備中高松城を攻めていましたが苦戦。信長に救援を求めます。そこで信長は明智光秀に秀吉の救援に向かうことを命令。
つまり、明智光秀に対して、秀吉の指揮下に入れというわけです。
さらには、光秀の丹波、近江の所領は、取り上げられ、その代り、これから戦う毛利がもつ出雲、石見を与えると信長から伝えられます。
このままでは、信長から斬り捨てられた他の者と同じように自分も捨てられてしまうのではないか?
信長はちょうど、備中高山城攻めの総仕上げとして、毛利との対戦を目論み中国遠征に備え、わずかな兵をつれて京都の本能寺に向かっていました。
また、信長の長男、信忠もわずかな兵と妙覚寺にいる。この状況なら信長、信忠ともに倒せるのではないか?そして、自分が天下人に・・・。
柴田勝家は北陸方面で上杉景勝と戦っている最中。滝川一益も関東にいるからすぐには駆けつけられない。徳川家康は、わずかなお供を連れ堺を見物中。
気になるのは、信長の三男信孝が大阪にいること。また、羽柴秀吉だが、信孝には大した力はないし、秀吉も備中高山城の包囲をしているのですぐには動けない。
状況は、完全に光秀に味方していました。信長、信忠を討って、すばやく近畿一円を制圧してしまえば、天下はおのずとやってくる。
これが、明智光秀野望説の理由です。つまり、状況的には勝算は十分にあったということです。
まぁ、実際には人間の感情ですので、怨念説、野望説が入り混じり決断を下したのでしょうけどね。また、もっと些細なことが気になっていた可能性もありますし、よほどの史料が出てこない限りは真相は闇の中といったところです。
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