芥川龍之介
|
芥川龍之介は、1892年3月1日に牛乳販売業を営む家庭で生まれました。父の名は、新原敏三といいますが、龍之介が生後7ヵ月の頃になると母の病状が悪化。その後は、母の実家に預けられ伯母によって育てられます。
後に龍之介は『文学好きの家庭から』で「家じゅうで顔がいちばん私ににているのもこの伯母なら、心もちの上で共通点のいちばん多いのもこの伯母です。伯母がいなかったら、今日のような私ができたかどうかわかりません。」と書いています。龍之介は、この伯母に随分と世話になったようです。
11歳の時に母が亡くなると叔父、芥川道章の養子となり、芥川姓を名乗ることになります。
さて、そんな芥川龍之介ですが、文学をやることは誰も全然反対をしなかったといいます。父も母も伯母もかなりの文学好きだったといいますのでそういった環境下で育ち自然と文学にふれていたんでしょうね。
ただ、小説らしい小説を読んだのは高等小学校へ入ってから。初めて、そういった本を読んだのが泉鏡花の「化銀杏」でした。まぁ、50ページくらいの本ですので、興味がある人は読んでみましょう。
その後の芥川は古今東西万巻の書を読み漁り、東京帝大英文科在学中の1915年に23歳で「羅生門」を発表します。超有名な作品ですね。
ただ、当時の反応はイマイチだったようです。しかし、反応はいま一つでも完成度はさすが天才といったところ!
「ある日の暮方の事である。1人の下人が、羅生門の下で雨やみを待っていた」で始まるこの作品。すでに、なんかかっこいいですね。
そして、終わり方は、「しばらく、死んだように倒れていた老婆が、死骸の中から、その裸の体を起こしたのは、それから間もなくの事である。老婆はつぶやくような、うめくような声を立てながら、まだ燃えている火の光をたよりに、梯子の口まで、這って行った。そうして、そこから、短い白髪を倒(さかさま)にして、門の下を覗き込んだ。外には、ただ、黒洞々(こくとうとう)たる夜があるばかりである。 下人の行方は、誰も知らない。」う~ん。終わり方も見事!
その後、芥川は「木曜会」という夏目漱石の会合に出席し、漱石の門下生となります。そして、菊池寛や久米正雄らと「新思潮」発刊。その創刊号に掲載したのが『鼻』でした。
この「鼻」を夏目漱石は絶賛!「ああいうものを20~30並べてみなさい。文壇で類のない作家になれます。」と励ますのでした。
これに答えるように芥川龍之介が書いたのが『芋粥』です。
当時は、告白本のような私小説が主流だったのですが、芥川はそういったものではなく、あくまでフィクションで人間の醜悪やエゴを書き続けるのでした。
東京帝大卒業後に海軍機関学校の教職に就きますが、そのころ発表したのが『戯作三昧』や『枯野抄』、『地獄変』です。その後、大阪毎日新聞社に努めるようになり、『杜子春』などを書きます。
芥川の心身に不調が進みだしたのは、この頃からだといわれています。
そして、『大道寺信輔の半生』、『点鬼簿』といった告白的自伝も書くようになっていきます。
そこに、義理の兄の自殺に伴う借金。親友である宇野浩二の精神病による入院などが重なり、1927年に「何か僕の将来に対する唯ぼんやりとした不安である」という遺書を残して服毒自殺で亡くなるのでした。享年35歳。
晩年の作品には『河童』、『歯車』、『或阿呆の一生』などがあり、晩年の作品を高く評価する見解もありますね。
辞世の句として「水洟(みずばな)や鼻の先だけ暮れ残る」。自殺の前に書いた色紙の一句がそれとされています。
なお、芥川龍之介の作品は、楽天KOBOなどのアプリをダウンロードすれば、ほとんどの作品が無料で読めます。芥川龍之介全集でも250円くらいです。短編が多いので、それほど読むのに時間もかかりません。代表作『羅生門』『鼻』『地獄変』『河童』『歯車』あたりは読んでおきましょう。
|
|
|
|