アレクサンドロス大王の東方遠征
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繁栄を極めたアテネやスパルタをはじめとするギリシアのポリス(都市国家)でしたが、ついにその時代も終わりを告げます。北方のマケドニアの王、フィリッポス2世(在位BC359〜BC336年)に支配されてしまうのです。
ちなみに、このマケドニアがBC338年にギリシアのアテネ・テーベ連合軍を撃破した戦いをカイロネイアの戦いといいます。
しかし、このマケドニアのフィリッポス2世も部下に暗殺されてしまう。代わって即位することになるのがアレクサンドロス大王でした。ちにみに、アレクサンドロス3世ともいうよ。また、英語読みすればアレクサンダー。こっちの方が聞きなれている人も多いかな?
このアレクサンドロス大王は大国ペルシアをも侵略しようと戦争をしかけていきます。これがアレクサンドロス大王の東方遠征です。東方遠征が始まったのはBC330年からですね。
では、このアレクサンドロス大王の東方遠征に過程を簡単に見ていきましょう。
まずは、グラニコスの戦い(BC334年)。これが、マケドニアのアレクサンドロス大王がペルシアを破った最初の戦いですが、まぁ、あまりテストには出ないみたいです。
次が重要。イソッスの戦い(BC333年)。これによりペルシアは大ダメージを受けることになります。
そして、BC331年のアルベラの戦いによりペルシアは敗北し、この直後、ペルシアの国王ダレイオス3世は家臣によって暗殺されます。
その後、アレクサンドロス大王は中央アジアを経て、インダス川流域まで進出しますが、さすがに部下たちにも疲れが見え、やもなく引き返すこととしました。しかし、疲れていたのは部下だけでなくアレクサンドリア大王も同様だたようで彼は、再びマケドニアの地を踏むことなく滞在先のバビロンにて32歳の若さで亡くなってしまいます。享年32歳でした。
ちなみに、アレクサンドロスの家庭教師もスゴイ人!なんと、あのアリストテレスです。まぁ、余談ですけどね。
アレクサンドロスは死ぬ間際に後継者を名指しで指名することなく、力のあるものが治めればよいといった言葉を残してしまいます。これにより、彼の死後、後継者達の間で激しい内乱が勃発することになるんです。この後継者争いのことをギリシア語でディアドコイ戦争といいます。
この後継者争いによりアレクサンドロスの血筋は絶え、やがてプトレマイオス朝エジプト、セレウコス朝シリア、アンティゴノス朝マケドニアの3つの大国を含むいくつかの国々に分裂していってしまうんですね。
<レウクトラの戦い
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