足利義満は、1394年に将軍の座を長男、義持に譲り、自身は太政大臣に昇進しました。武家として最高位の征夷大将軍と公家として最高位の太政大臣をともに務めたことになります。さらに、半年後には、太政大臣をやめ、今度は出家して宗教界をも手中に収めようと考えます。
また、足利義満は1401年は遣明使を派遣しますが翌年、明から「日本国王源道義」という返書をもらっています。道義とは出家した義満の法名です。明から国王としての返書を貰っていたのです。
当時、義満の権力がいかに大きかったかがわかるエピソードです。
あの有名な金閣寺の造りにもメッセージが含まれていると囁かれています。金閣寺の造りは1階が公家の好んだ寝殿造り。2階が武家造り。3階が禅宗仏殿造りとなっています。これは、俺は公家よりも武士よりも天皇よりも偉いんだぞ!という義満のメッセージだともいわれます。
このように当時大きな権力を握っていた足利義満。1408年4月25日には、自身の息子の元服の儀を宮中で行うのですが、この時、「うんげん緑」といわれる天皇と上皇のみしか座ることを許されないといわれる畳を用意させ天皇、上皇と同じ作法で対面しました。いよいよ、息子を天皇にし、自身は上皇として君臨するという筋書き通りにことは進んでいくのです。
しかし、息子の元服の儀から2日後の4月27日。足利義満は、病に倒れ、5月6日には急死してしまいます。通説では、風邪をこじらせ急性肺炎になったといわれていますが、なにしろタイミングが良すぎる。
天皇家を守ろうと誰かが義満に毒を盛り暗殺したと言う方が納得がいくといったところです。
とはいえ、現在、足利義満が暗殺されたという証拠は出てきておりません。ただ、タイミングが良すぎるだろ!というだけです。外傷などもなく、4月27日から徐々に弱っていった様子も伺えることから暗殺であったとしたら毒殺という説が一般的です。
死後、足利義満は朝廷から太上法王の称号を送られますが、これは周りからの説得もあり息子の義持により辞退しております。ホント、もう一歩で天皇の位というところまできていたようですね。
|