古代ギリシアの歴史 アテネ
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古代ギリシアでは、ポリス(都市国家)といって国家的な機能をもった小規模な都市がいくつもありました。その中でもアテネは別格。他のポリスに比べて圧倒的に大きかった。ですから、学生さんなら、このアテネはよく学習しておきましょうね。テストでも出題率は高いほうです。
アテネで必ず出てくる言葉が「民主政」。では、このアテネの民主政の発展について見てみましょう。
アテネの民主政の発展
民主政っていうとちょっと難しいですね。現在の日本での民主主義とはちょっと違います。では、アテネでの民主政の発展とは何を言うのか?言い換えると「参政権の拡大」です。
当初、アテネでは、貴族にしか参政権は認められていませんでした。
なぜか?当時のアテネでは、軍役を果たさない者には、参政権が与えられなかったんです。しかも、「武器は自分で調達してくださいね。」っていうのが当時の常識。つまり、お金を持っている貴族は武器や防具を買い戦争に参加できる。逆に平民らは、お金がないので戦争にいけない。つまり、参政権も与えてもらえなかったんです。
しかし、紀元前8世紀から紀元前6世紀頃にギリシア人は海外植民地市を建設します。代表的な場所はマッサリア(現在のフランス、マルセイユ)。あとネアポリス(現在のイタリア、ナポリ)。それからビザンティオン(現在のトルコ、イスタンブル)。
これらの植民地市との貿易によりお金持ちの平民も現れてきます。また、武器や防具も大量に売れるようになっていったので価格が下がり平民が購入しやすくなりました。そして、彼ら平民も武装し戦争に行くようになります。
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当時の武装はこんな感じ。絵が下手だけど、青銅製のヘルメットに盾。槍といった武装。
こうした兵士を重装歩兵(じゅうそうほへい)といいます。 |
すると、「俺たちも軍役の義務を果たしてるんだから、当然参政権を持てるんでしょうね!」
と、平民達は求めます。貴族にしたら「う〜ん。本当はイヤだけど、しょうがないねっ。」ってことでしぶしぶ了承。
これがドラコンの立法です。ドラゴンじゃなくドラコンですからね。間違えないでね。
ドラコンの立法
このドラコンの立法というのは紀元前7世紀後半のドラコンという人物が慣習法を文章化して平民にも公開しました。
それまでの政治は、慣習法といって貴族が政治上決めたことはいっさい記録として残しておかなかったんです。貴族が後で都合のいいように解釈を変えたりできますからね。平民にも政治の実態がバレて批判されてもごまかせるしね。
でも、これらをきちっと文章化するようにしましょうと決めたんです。
教科書風にいえば、『ドラゴン法は、慣習法を成文化して平民に公開した』ってこと。
えっ、でも文章化したくらいで民主政っていえるの?平民が政治に参加(参政権)できるようになったっていえるの?いえ、実は法律の内容も別に特別民主的といえるものではありませんでした。
しかし、ドラコンの立法は民主政発展への最初の成果となったといっていいでしょう。
アテネでの民主政のステップ1の達成です。
ソロンの改革
紀元前594年。アテネの政治家であるソロンという人が改革に乗り出します。この改革が民主政へのステップ2です。
まずは、『財産額に応じて参政権の基準を決めます。』
ソロンは。財産の大小に応じて市民を4つの階級に分けました。そして、それに応じた権利と義務を定めたんです。このソロンの政治を「財政政治」といいます。
当時は、貯金の額とかで財産を計ったわけではないですよ。ブドウとかオリーブとかの収穫量ではかったらしいです。これによって、それまで参政権が認められるのは家柄などが中心だったんですが、財産額によって市民はそれぞれの階級に応じた参政権を得ることができるようになったんですね。
どうです?ちょっとずつですけど、参政権が広がってきたでしょ。
そして、ソロンの行った改革で重要なものがもう1つ。『市民の負債を帳消しにして平民が債務奴隷に転落することを禁止します。』
債務奴隷というのは、借金が払えず奴隷に転落する人のこと。これを禁止したんです。なぜ、そんなことをするのかというと、アテネにとっても平民が奴隷に転落することはマイナス要因になりうるんです。アテネを防衛する人が減っちゃいますからね。また、平民から奴隷に転落すれば社会的に不安分子にもなりかねません。
だから、ソロンは債務奴隷への転落を禁止したんです。
これらソロンの改革はアテネの民主化に寄与しているし、かなり画期的だったともいえるんですが、後に彼はアテネを去って旅をするようになります。余談ですけど、幻の大陸アトランティス。あれは、彼がエジプトで仕入れた情報といわれているよ。
ペイシストラトスの僭主(せんしゅ)政治
紀元前6世紀半ばには、ペイシストラトスという人が現れ僭主政治を行います。僭主とは、クーデターを起して政権を奪取した人(独裁者)のこと。
「アテネもちょっとずつ、民主政に近づいてきたのに・・・。うぁ〜。やばい奴に政治握られたなぁ」と思われがちですが、小規模な農民の保護や商工業者を守ったり、文化事業にも力を入れておもに平民の支持を得てまずまずうまくやってくれるんです。
貧民に対しては、土地の再分配なども行うので、政権の奪取のやり方は非合法だったけど政治的には悪くはなかった。しか〜し、息子が問題児でアテネの政治をめちゃくちゃにしちゃう。結局、この問題児はアテネを追放されちゃいますけどね。
クレイステネスの改革
ペイシストラトスの息子がダメ息子だったのでクレイステネスという人は、ある改革を思いつく。それが陶片追放(とうへんついほう)という制度(紀元前6世紀末)。英語ではオストラシズム、ギリシア語でオストラキスモスというよ。これは、陶片のことをオストラコンというところからきているんだね。
さて、この陶片制度だけど、これは、民衆を集めて独裁者になりそうな人物がいたら、その人物の名前を陶片に書かせて投票させるというもの。そして、票数が6千票以上獲得したものがいたら、その中で一番票を獲得した人物を10年間国外追放にするという制度。
なるほど、独裁者を出さない為には画期的な制度だけれども、後にこの制度は悪用されてくるようになるんだ。政治家がライバルを蹴落とすために利用したりするんだね。悪い人はいろいろ考えるね。だから、この制度は紀元前5世紀末頃には中止されます。
もう1つ、クレイステネスで有名な改革がデーモスの設定。それまでのアテネでは血縁関係に基づいて4つの部族に分かれていたんです。これは、貴族の政治基盤ともなっていました。
クレイステネスは、それを解体して新たに10の区を設定したんだね。この区をデーモスというよ。
そして、その各デーモスに抽選によって選ばれた50人づつの評議委員を置いて、地域単位で政治が行えるようにします。
これによって、平民の政治参加が進展して、貴族だけで政治を左右することが難しくなっていきます。
どうです?かなり、アテネも民主的になってきたでしょ。
ここまで(紀元前6世紀末)の段階でアテネの参政権は、軍役義務を果たしていない人や奴隷、女性、在留外国人を除いてほぼ達せられることになります。まぁ、女性に参政権がないことや奴隷制度があるところなどは、現在の民主主義とはかなり違いますけどね。
しかし、この軍役義務を果たしていない人(戦争に行きたくてもいけない人)にも戦争に行くチャンスがめぐってくるんです。それがペルシア戦争ですね。
<ポリス(都市国家)の形成
>ペルシア戦争
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