ベルサイユ条約
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第一次世界大戦は1918年、ドイツ、オーストリア側の敗戦に終わります。そして1919年、パリで講和会議が開かれ、アメリカ、フランス、イギリスの三国を中心に戦後処理の方針が決められます。日本も五大国(日・英・米・伊・仏)のひとつとして、この会議に出席しました。
そして、このパリの講和会議の結果、結ばれたのがベルサイユ条約です。
フランスのベルサイユ宮殿、鏡の間で調印されたのでベルサイユ条約と呼ばれる訳ですね。
このベルサイユ条約が調印されるに至るまでの間には、小規模の被害で一定の成果を上げたアメリカと総力戦となり悲惨な現実を体験することになったヨーロッパ側との間には微妙な考えのすれ違いが起きます。
アメリカのウィルソン大統領は、第一次世界大戦によって、膨大な被害、人命、財産が失われた結果から世界平和と国際協調をはかる国際連盟の成立を提唱します。
しかし、フランスなどの勝戦国は、そんなものは絵空事であると反対。
とはいえ、第一次世界大戦では、アメリカの参戦により勝利できたのがヨーロッパ勝戦国の現実であった為、このアメリカの提唱は受け入れられることになります。
1920年、国際連盟発足。
ですが、ドイツへの対応となりますとイギリスのロイド・ジョージ首相、フランスのクレマンソー首相が会議をリード。特にドイツと敵対してきたフランスのクレマンソー首相などは、「自分が死んだらドイツの方向に立ったまま埋葬してくれ」と遺言を残したほどの人物であり、ドイツに対しては非常に厳しい態度をとり続けます。
結果、結ばれることにるベルサイユ条約では、ドイツに対してかなり厳しい内容のものとなりました。
ドイツのアルザス・ロレースという鉄鉱石の約90%を産出していた地区をフランスに割譲。また、石灰が多くとれるザール地方は国際連盟の管理下に入り、ベルギー、ポーランド、デンマークにも領土を割譲。これにより、ドイツはヨーロッパだけでも領土の13%ほど。人口でも10%を失うことになります。
さらに、海外の領土、植民地もすべて取り上げられます。軍備も陸軍10万人まで、海軍の軍艦は10万トン以下と保有を制限。さらにさらに、途方もない賠償金も払わされます。1320億金マルク(これは当時のドイツのGNPなんと20年分にも相当する額)です。
こんなことされたら、ドイツはもう立ち上がれない・・・。
というのは間違いで、当時、この講和会議に参加したイギリスの経済学者、ジョン・メイナード・ケインズは、著書の中で”これでは再び戦争が起きる!”と予言しておりました。
実際、このドイツに対する過酷なベルサイユ条約により、ドイツの経済は崩壊。プライドを傷つけられたドイツ民族は立ち上がり、やがてヒトラー率いるナチスが現れることになるのです。
ベルサイユ条約の問題点はこれだけではありませんでした。
第一次世界大戦には日本も日英同盟を名目にドイツに宣戦布告し、1915年には中国に二十一カ条の要求を突きつけていますね。列強の国の目がアジアからそれている間に日本はしっかり中国での利権拡大を狙ったわけです。
1920年にはアメリカの提唱にて国際連盟が発足し、「民族自決」の原則から東ヨーロッパでは次々に独立する諸国が出てきますが、これはアジアやアフリカには適用されていませんでした。
その為、日本が中国に突きつけた二十一カ条の要求に対する中国の抗議やインド、エジプトの独立要求も無視されます。
その結果、中国では五.四運動が起こり日本製品のボイコット運動へと発展することになるのでした。
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