ビザンツ帝国(東ローマ帝国)
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中世ヨーロッパの歴史では、西ヨーロッパと東ヨーロッパに分けて勉強することが多いはずです。今までお話してきた内容は、西ヨーロッパのお話でしたね。では、今回は、東ヨーロッパ、ビザンツ帝国について学んでいきましょう。
ビザンツ帝国のことを東ローマ帝国という場合もあります。この東ローマ帝国とビザンツ帝国の違いってなんでしょう。まぁ、普通はどっちでもOKってところです。テストにも、この東ローマ帝国とビザンツ帝国の違いは何?なんて問題は、見たことないですしね。
細かいことを言えば、7世紀以降に東ローマ帝国はイタリアを喪失するんですけど、その後はラテン文化の要素が薄まってきてギリシア文化が濃さを増していきます。こうなった後をビザンツ帝国というのですが、参考書や歴史の本を読んでも全盛期を通じて東ローマ帝国或いはビザンツ帝国とどちらかの表記もしくは、カッコでかこって東ローマ帝国(ビザンツ帝国)などと表記されていることが多いので、普通はどっちでもOKといったニュアンスです。
さて、前置きは、終わりにして、このビザンツ帝国は395年〜1453年と兎に角長い歴史を持っている帝国です。今回は、ざっくり重要事項だけ見ていきますね。
ユスティニアヌス帝の時代
東ローマ帝国の最盛期というと6世紀のユスティニアヌス帝の時代。東のササン朝のホスロー1世と和睦を結び、東からの攻撃の心配がなくなると西に目を向け、534年に北アフリカのヴァンダル王国を555年にイタリアの東ゴート王国を滅ぼし、西ゴトーからイベリア半島の一部を奪還。地中海沿岸を手に入れました。
また、彼は、この征服活動に先立って「ローマ法大全」の編纂を命じています。領土が広がるにつれ、異なる言語や習慣をもった民族も支配することになりますね。そうなった時にそれら民族の違いを越えての法が必要となってくるわけです。この編纂の中心人物になったのは、法学者のトリボニアヌス。ローマ法大全は、ハムラビ法典やナポレオン法典と並んで世界三大法典といわれていますよ。
ヘラクレイオス1世
ユスティニアヌス帝の死後、帝国は縮小に向かいます。
ランゴバルド王国やフランク王国によりイタリアは、ほぼ全域が奪われ、7世紀にはササン朝によりシリア・エジプトも奪われました。そんな帝国の縮小に向かっている時期に登場したのがヘラクレイオス1世。彼は、自ら軍を率いてササン朝から奪還しますが、その後、今度はイスラーム勢力によって再びシリア・エジプトは奪われてしまいます。
もう、さすがのビザンツ帝国も軍事的に危機的状況なわけです。
そこで、軍管区制(テマ制)という制度がとられることになりました。軍管区制とは、軍が管理する区域ということ。まぁ、地方分権と言ったほうがわかりやすいですかね。
帝国をいくつかの軍管区にわけて、その区にそれぞれの責任者をたてます。そして、彼らには軍事的な権限と共に、その地区の行政権も与えるというもの。古代ギリシアで軍隊が「テマ」といわれていたことからテマ制ともいいます。
ですが、この制度。後々、ビザンツ帝国の分裂の原因にもなってきます。地方の軍管区の司令官が自立傾向を強めて半独立のような状態を促してしまうことになるんです。
レオン3世
イスラーム教徒の侵攻が続く中、8世紀に即位したのがレオン3世という人。彼は、イスラーム勢力であるウマイヤ朝と何度か戦い勝利しています。また、彼は726年に聖像禁止令を出しました。
聖像禁止令っていうのは、神様を勝手に描いたり、偶像を作ったりしてはいけませんってことです。イスラム教では、この聖像禁止っていうのは有名ですよね。神様の姿は尊いものだから、人間が勝手に描いてよいものではないってことです。もともとは、キリスト教だって偶像など作ってはダメだったんですよ。しかし、布教の際には目に見える聖像などを作り、それを神様だと思ってお祈りしなさい。と、いったほうがわかりやすいですよね。イメージしやすい。
ですから、当時のローマ教会は、ゲルマン人に、この聖像を用いて布教を行っていたんです。しかし、それを急に使ってはダメといわれて「ムッ」となってしまいます。「それじゃ、布教がうまく進まないじゃないか!」ってね。
それで、西のローマ教会との間に軋轢を生むこととなり、後に東西の教会は完全に分裂することとなります。
ビザンツ帝国の衰退
9世紀になるとドナウ川下流のデルタ地帯に第一次ブルガリア帝国が建国されます。現在のブルガリア人の先祖といわれているブルガール人ですね。彼らがスラヴ人と手を組んで建国した国です。
このブルガリア王国は領土を拡大。一時はビザンツ帝国に朝貢(貢物)を課すほどに発展するんです。
ですが、このブルガリア王国は、やがて衰退し、11世紀はじめにはビザンツ帝国によって支配されました。
しかし、この頃には、すでに貴族による大農場経営が盛んになっていて貴族の力が強くなり、帝国の分裂が進みだしていきます。そこで、とられた政策がプロノイア制。
これは、「しょうがないから、貴族たちには農地の所有権や徴税権を認めてあげますよ。その代わりに軍役奉仕をしなさいよ」というもの。これによって、中央集権を維持することを狙ったんですが、大きな成果はあげられませんでした。
11世紀の後半には、セルジューク朝からの侵攻を受け、1071年にマンジケルトの戦いによってビザンツ帝国皇帝が捕虜になるという事態も・・・。さらに12世紀末にはブルガリアがビザンツから再び自立。これを第二次ブルガリア帝国(王国)といいます。
第4回十字軍
13世紀始めには、十字軍の攻撃にもあいます。十字軍って本来は、イスラム教徒と戦う軍隊のはず・・・。まぁ、この十字軍も回を重ねるごとに何だかおかしなことになってくるんですね。
もうイスラム教徒とか関係ないんです。地中海貿易の商売敵だったのでビザンツ帝国の首都、コンスタンティノプールを攻撃し占拠しちゃうんですね。そして、ラテン帝国というのを打ち立てました。
ビザンツ帝国の滅亡
もう、ビザンツもボロボロです。そして、1453年にはオスマン帝国によってビザンツは滅ぼされてしまいました。
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