曹操、銅雀台を築く
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赤壁の戦いに敗れた曹操でしたが、、210年に銅雀台(どうじゃくだい)という壮麗な宮殿をつくりました。この銅雀台がどういったものだったのか、実は、詳しく記してある史料は見つかっていません。
しかし、曹操の三男の曹植が「何重にもかさなる台に昇って、心を休ませています。広大な市街が広がっていくのを見、父上の仕事の偉大さを知りました。高い門はまるで険しい峠のようだし、物見やぐらは空中にういているようです」と書いているので高層階の宮殿であったようです。
また、三国志演義によれば、曹操が金色の光った場所からひとつの銅製の雀を掘り出したといいます。それを荀攸がこれは吉兆ですぞ!と喜んだため曹操は、この銅孔台をつくらせたといいます。
そして、中央を高くして銅雀台と名付け、北に氷井台、南に金虎台を造営し、それぞれを橋でつなげるのがようでしょうと曹植が進言し、曹操はそのようにつくらせたといいます。
現在でも銅雀台の遺跡はわずかに残っており、予想では5層の楼閣で、高さは30メートルあまり、城壁の上に建っており、地上からの高さは65メートル、周囲には100ほどの建築物が建ち並び、氷井台の高さも20メートルほどあったとされています。
この銅孔台では、宴会などが行われたりもしますが、周囲に散らばる軍閥らに曹操の経済力を知らしめる狙いもあったといわれています。
<周瑜死す
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