江戸城の無血開城
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江戸の無血開城とは、幕府陸軍総裁の勝海舟(かつ かいしゅう)と官軍(新政府軍)参謀の西郷隆盛(さいごう たかもり)が会談により江戸城の新政府への引渡しを決めた出来事です。
時代は幕末の1868年3月14日。薩摩藩の屋敷の一室で勝と西郷は向かい合って座っていました。
この時、すでに鳥羽伏見の戦いで旧幕府軍は新政府軍(官軍)に破れており、新政府軍は、徳川家が持つ広大な所領を奪い、政治運営のために必要な財源を確保すべく、勝と西郷の会談が終わり次第、江戸城への総攻撃の準備に取り掛かっていた頃です。
しかし、幕府側の勝海舟は考えます。江戸が戦火に巻き込まれるようなことがあれば、それはたちまち日本全土へと広がり、国力は疲弊してしまう・・・」
そこで勝は、新政府軍参謀の西郷に提案を持ちかけます。「徳川家に対する寛大な処分を行うならば、抵抗することなく江戸城を明け渡す。」と・・・。
西郷は、しばらくして「いろいろ難しいこともありましょうが、私が一身にかけてお引渡しいたします」と答え当時100万人以上が住んでいた江戸の町は戦火となることなく江戸の無血開城が実現したのです。
この勝海舟という人は、ほんとスンゴイ人なんですよ。勝は、黒船来航以来、幕府の海軍建設のために取り立てられた幕臣でした。ですから、アメリカ渡航なども経験しているんですが、そうした経験の中で幕府が今まで通りに日本の中心として政治を進めていくのは無理だと悟っちゃうんですね。
そして、幕府の海軍ではなく、日本の海軍の建設に務めるようになるんですが、そうした中、西郷たち幕府や藩などを越えた人たちと交流を深めていくことになるんです。
あの坂本龍馬なんて勝を暗殺しにきたのに、勝の魅力に暗殺をやめて弟子になっちゃうんですからね。勝海舟という人は見識も広く、熱意もあったんでしょうね。
勝海舟の考えは、当時、幕府だ新政府だと皆が言っている中、国が2つに分かれて争っている間に日本の力が弱まり、その隙に外国の植民地にされてしまうことを心配していたといいます。実際、当時、幕府の中でフランスの援助を受けて新政府軍に対抗しようとする動きがあったのですが、勝は、フランスがそこにつけ込んで日本を植民地化する恐れがあると考え、この動きを抑え込んだりしてますからね。
ですから、江戸の町が戦火にさらされることは、絶対に避けたかったんです。全国に内戦が広がって日本の国力が落ちているときに外国につけこまれたら、そりゃ、もう大変ですからね。
対する西郷も勝とは面識があり、その見識の広さを認めていたので申し入れを受け入れることを決意するんですねぇ。もう、幕府だ、新政府だ、藩だ、なんていう各、個の利益を離れて、日本という大きな立場からの2人の決断が江戸無血開城だったわけです。
幕末の男たちは、ホントかっこいいですねぇ。
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