田沼意次・蝦夷地開発
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1783年。工藤平助という人が「赤蝦夷風説考(あかえぞふうせつこう)」という論文を田沼意次に提出しました。それには、「ロシアが南下してくるかもしれないから、防備して蝦夷地(北海道)を開発してほうがいいよ。」といった内容。赤蝦夷とはロシアのことです。
ちょうど、当時田沼意次も蝦夷地に興味を抱いていました。
そこで、1785年、幕府は蝦夷地の調査を行い農民の移住や開墾を企画しました。
当時は江戸時代。鎖国の真っ只中だったわけですが、田沼意次の行った蝦夷地開発の計画には、ロシアとの交易も念頭にあったというので、かなり大胆な計画でした。
また、田沼意次は下総(千葉県)の印旛沼、手賀沼の新田開発や運河を建設する計画もしていたのですが、残念ながらその後田沼意次は失脚。
それらの計画と共に蝦夷地開発も志半ばで中止となってしまいます。
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