歴史年代ゴロ合わせ暗記  

歴史年代ゴロ合わせ暗記三国志白馬の戦い

白馬の戦い


 200年1月、曹操は劉備を討伐するために自ら出陣します。しかし、この曹操出陣は曹操側でも意見の分かれるところでした。曹操自身が出陣すれば袁紹がその隙をついてくる可能性があったからです。

 事実、袁紹の軍師である田豊は曹操の背後を討つことを進言しています。しかし、袁紹は息子の病気を口実にこの機を逃すのでした。

 そして、曹操は見事、劉備に勝利。劉備は妻子も見捨てて逃げ出すしかありませんでした。

 また、下邳の城を任されていた関羽も曹操に捕えられてしまいます。



 しかし、かねてより関羽の武勇と人柄を惚れ込んでいた曹操は、なんとしても彼を自分の配下に置いておきたい。そこで、かつて呂布の部下であった張遼に関羽の説得を頼みます。

 関羽は、劉備の居場所が分かり次第戻ること。劉備の夫人たちに十分な暮らしをさせること。などの条件を付け、曹操のもとに一時留まることを決意します。

 曹操は、屋敷や金銀の器、10人の美女などを関羽に与えますが、関羽は見向きもしません。

 そんな時、ついに袁紹が動き出すのでした。

 200年2月。袁紹が曹操討伐を決め、顔良を大将に、曹操軍の劉延が守る白馬への攻撃を命じます。

 4月。白馬包囲の知らせを受けた曹操の参謀、荀攸は陽動作戦を進言します。まず、袁紹軍の背後を衝くように見せかけて、袁紹軍の主力を引きつけ、その隙に機動部隊で白馬を急襲するという作戦。

 この作成は見事に成功!曹操は、自ら小隊を率いて白馬へ駆けると、事実に気づいた顔良は慌てて応戦しようと態勢を整えようとしますが、そこへ関羽と張遼の部隊が突撃!

 関羽は一瞬で顔良の首を斬り捨て悠然と引き返してくるのでした。

 正史三国志には「顔良を討ち取られた後、関羽を相手にしようとする者はいなかった。そして、関羽の働きによって白馬の包囲がとかれた」と書かれいます。

 ちなみに三国志演義では、関羽は顔良を討ち取った他、文醜も一騎打ちで討ち取ったと書かれていますが、これは創作です。

 実際には、関羽の活躍により白馬での敗北を知った袁紹本隊が曹操の部隊を追っていくのですが、曹操の待ち伏せにあって文醜は討ち取られています。

 「これで曹操への借りは返せた」と関羽は曹操のもとを去る決意をします。

 曹操は、張遼に関羽を引き止めるよう説得を頼みますが「曹操殿には感謝しているが、私は、劉備殿と共に死ぬことを誓った身。この誓いに背くわけには参らぬ。」と答えます。

 張遼は、曹操が関羽を殺してしまうのではないか?と心配しますが、関羽が曹操のもとへ向かうと配下の武将たちが関羽を追うのを止め「関羽は彼なりの義を通したのだ。追ってはならぬ。」と制止するのでした。

曹操VS劉備


官渡の戦い