豊臣秀頼は秀吉の子ではなかった?
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豊臣秀吉と側室・淀殿との間に生まれた子が後に秀吉の後を継ぐことになる豊臣秀頼だということは多くの方がご存知でしょう。
しかし、この豊臣秀頼が実は、秀吉の子ではなかったという説が古くからあります。
こんな噂がながれた根拠は、秀吉は多くの側室を持ちながら、はっきり確認されている秀吉の子はたった2人しかいなかった為です。
しかも、その2人の子は、共に淀殿から生まれています。
ひとり目は、鶴松という子で3歳で亡くなっています。そして、もうひとりが秀頼です。しかも、長男の鶴松ができた時でさえ、秀吉はすでに50歳。
そこで、淀殿から生まれた鶴松と秀頼は、淀殿が浮気をして生まれた子ではないか?という説が出てきた訳です。
じゃ、その浮気相手は誰なんだ?というと、有力視されているのは、秀吉の側近、石田三成や淀殿と幼少時から親しかった大野治長。
しかし、これらはあくまで推測の域。秀吉は子が出来にくい体質であったというのは事実ですが、子種がなかったという証拠はありません(実際、はっきり確認はされていないものの、若かれし頃に松の丸殿との間に石松丸秀勝ともうひとり女の子がいたこともわかっている)。
もはや、真相は闇の中・・・。
もう少し、時が経てば、秀吉と秀頼の血判などから、親子関係がはっきり分かる時が来るかもしれませんね。
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