豊臣秀吉の名前の変化
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豊臣秀吉は出世と共に名前をドンドン変えていきます。羽柴という姓や藤吉郎という名前は有名ですが、実は、「藤原秀吉」なんて時期もあったんですよ。
では、秀吉の名前の変化について簡単に学んでいってみましょう。
百姓の子供として生まれた秀吉は、日吉丸と呼ばれていました。ただし「太閤素生記」では、幼名が「猿」だったとされています。まぁ、日吉丸と呼ばれるより当時から猿と呼ばれることが多かったのかもしれませんね。
その後、成長した秀吉は、藤吉郎と名乗ることになります。
あれ?姓は?と、思われるかと思いますが、貧しい百姓の子供でしたので姓はなかったといわれていますよ。後に木下と名乗ることになりますが、これは信長に仕えることになったあたりからだとされています。
なぜ、木下なのか?という疑問も湧きますが、これははっきりしたことがわかっていません。一説には、信長と出あったのが大きな木の下だったとか?恩人の松下之綱にヒントを得て木下にしたとか?いろいろですが、信長に使えることになったとされる1558年に「木藤」という自署した文章が見つかっていますので、この頃には木下藤吉郎を名乗っていたのは確かなようです。
秀吉という名前になったのは、士分に取り立てられる頃だとされています。
木下という姓を羽柴に変えたのは1573年。小谷城を攻め落とし、その地を信長から任されることになった年ですね。尊敬する丹羽長秀と柴田勝家にあやかって羽柴にしたといわれます。
その後、秀吉は「平秀吉」を名乗ります。
「平」の姓は、超ブランド力のある名前ですよね。天皇が臣下に送った姓として「平」「源」「橘」「藤原」がありますが、その中の「平」ですからね。かっこいいから勝手に付けちゃえなんて軽い気持ちで名乗れる姓ではありません。もう、権力がハンパない証拠ですね。
ついで、関白になる際、「藤原秀吉」となります。
ですが、この「平」や「藤原」でも秀吉は、納得できない。天下統一を成し遂げたんだから、天皇から新たな名前を自分の為だけにもらう必要がある。その資格も私にはある!と、いうことで天皇から新しい姓をもらったのが「豊臣」でした。
1586年12月、太政大臣に任命された秀吉は天皇から豊臣の姓を賜り「豊臣秀吉」になりました。
まるで出世魚ですね。成長していくにつれて名前も変えていく。しかも、最後は天皇から新しい姓までもらっちゃうんですからね。ですが、この豊臣の姓も秀頼の代ではかなく消えていってしまうことになるのでした。
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