下層農民の子、豊臣秀吉はいかにしてのし上がっていったのか?
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豊臣秀吉といえば、信長の草履を懐で温めるという逸話が有名であり、なんだか織田信長にゴマをすって出世していったイメージを持っている方もいるでしょう。しかし、実際の豊臣秀吉は織田信長が認めざるを得なかったほどの天才でした。
信長に仕えた秀吉は、まず馬飼いを命じられます。秀吉は、来る日も来る日も、暇さえあれば馬の体をなで続け、そのお陰で馬の体はいつでも毛艶がピカピカです。それが信長の目にとまり、草履取りを命じられます。
草履取りになった秀吉は、寒い季節、信長さまが草履を履いても”ひんやり”しないようにと草履を懐に入れ暖めてから信長に差し出すという実に細やかな心遣いでまたまた信長に気に入られます。 |
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そして、台所奉行になれば、節約に励み、燃料であった薪の費用を今までの3分の1にまで減らしたといいます。
秀吉は出世して行く過程で次々とアイデアを絞り、信長に認められて行くのです。
有名な話では、清洲城の塀の修理が進まないのを見た秀吉は競走で塀を修理させようというアイデアを出します。塀を約180メートルほどに分け、職人達をブロックごとに分けていきます。その中でリーダーを決め、秀吉は「いいか、それぞれの担当場所ごとで一番先に修理が出来上がったものには給料にプラスして沢山のお金やるぞ!」といいます。職人達は、お金ほしさに競って修理に励み、驚くほど短期間で塀の修理は終わったといいます。
また、秀吉の名を家人たちに知らしめ出世街道をひた走る原因となったのが墨俣一夜城です。
当時、信長は桶狭間の戦いで今川義元を倒し、天下統一の夢を抱き斉藤善龍の稲葉山城を攻めに向かいます。その砦として、墨俣に陣地を築こうとするが、敵に邪魔をされ思うように進まない。そこで、当時、士分に取り立てられていた秀吉が信長に打開策を進言するのです。
秀吉は、今でいうプレハブ建築のような方法を考え出します。事前に木材を切りそろえ、現地に運んだらすばやく組み立てる方法です。まずは、敵の進入を防ぐ馬柵を急ピッチで完成させ、夜の闇に隠れ、城造りに専念させました。そして、たったの3日で墨俣城を完成させてしまったのです。その後、秀吉は城を完成させただけでなく、秀吉のゲリラ的な戦法により稲葉山城攻略にも大きく貢献します。
豊臣秀吉は、通常、敵の10倍の兵力を必要とされるといわれる城攻めも得意でした。たとえば、味方に犠牲者を殆ど出すことなく城を攻め落としたという戦いもあります。これは、秀吉の理想の戦いであったようで晩年まで部下達に自慢したと言われています。それが、鳥取攻めです。
秀吉は、まず、敵に米を蓄えさせない為に商人を潜り込ませ、春先から米を高値で買占めさせます。あまりにも高値で買ってくれるので鳥取の兵までもが米を売ってしまったほどだといいます。
そして、6月、秀吉は鳥取城の周り12キロに4万の兵と堀や縄で完全な包囲網を張り、食料や情報などを完全に遮断させてしまうのです。
城に残った城主、吉川経家とその兵の数は4千人ともいわれ、食料はたった1ヶ月で底をついてしまいます。食べ物がない城の中は悲惨な状況で軍馬や牛はもとより、トカゲや蛇まで食べつくしたといわれています。そして、遂に10月25日、城主は自らの命と引き換えに部下達の命は助けてくれと願い出て降伏するのです。
秀吉は、相手方は悲惨な状況に追い込みながらも、自軍は殆ど死者を出すことなく戦いに勝ってしまったのです。
この兵糧攻めの戦術や長期にわたる包囲戦術は、豊臣秀吉の得意戦術であり、三木城攻略でも、この兵糧攻めにて勝利しています。
また、他を圧倒する発想力として驚きなのが、備中高松城の水攻めです。豊臣秀吉は、なんと城ごと水没させるとう作戦を考えつきます。
豊臣秀吉は、近くの農民達に破格の金を払い、巨大な堤防を短期間で作り上げ、川の水をせき止めました。堤防にせき止められた川の水は、高松城の周辺を満たしていき、やがて城は巨大な人口湖に浮かぶ孤島のようになってしまいます。この戦いの途中で、織田信長が明智光秀の裏切りにより自害したことにより、和睦という形で戦いを切り上げることになるのですが、無駄に兵をつかい攻め立てるよりも、アイデアで金を使い城を攻めるという秀吉らしい戦術でした。
「猿」と呼ばれた秀吉は、恵まれぬ生まれをものともせず、努力とアイデアで階段を1つ1つ上るように出世し、遂には天下統一まで成し遂げてしまいます。晩年の朝鮮出兵や独裁的な振る舞いなど許されぬ行為も行ってはいますが、そこに登りつめるまでの姿勢は現代でも学び手本としたい魅力的な人物のひとりです。
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