本能寺の変の真実
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織田信長は1582年に本能寺の変で亡くなっています。明智光秀が謀反を起こし本能寺に火を放ったという”アレ”ですね。みなさんも、よくご存じでしょう。
この本能寺の変は、漫画やドラマ、映画などで何度も何度も題材となっていることから、いったい何が本当で何が創作なのか?よくわからん!という方も多いのではないでしょうか?
まぁ、実際、本能寺の変については謎が多いんですけどね。今回は、本能寺の変、信長の死の真相についてちょっと見ていきましょう。
1582年3月、ついに織田信長は甲斐(山梨県)へ侵攻し、最大の脅威であった武田氏を滅ぼします。北条氏をはじめとする関東・奥羽の群雄はすでに実質上従属しているし、後は中国・四国の平定が済めば、九州の大友氏・島津氏はおそらく戦う気力すらなくなるはず・・・。つまり、中国地方、四国攻めが天下統一の実質的な仕上げとなるわけです。
その中国攻めを任せていた羽柴秀吉(豊臣秀吉)から毛利側の反攻が始まり援軍が欲しいとの要請が入ります。信長は部下の明智光秀に出陣をすぐさま命じ、自身もその準備に取り掛かる中、京都へと向かいました。配下の諸将は皆、各地で奮戦中でしたので信長が連れていたのはわずかな手勢のみ。
さて、この本能寺の変は明智光秀の謀反であることは皆さん知っているわけですが、その動機がはっきりとしません。
まず、古くから言われてきたのが「怨恨説」です。これは、江戸時代から20世紀中ごろまで主流な説でした。皆の前で鉄扇で信長に叩かれたとか、信長の違約によって人質に出していた母が殺された。また、現在の領地を取り上げられ、まだ未征服であった出雲・石見への国替えを命じられたといった為、光秀は怒りが爆発したといった話は広く信じられてきました。
しかし、1950年頃になると高柳光壽という戦国史の専門家の方がこれら「怨恨説」はどれも史料的に信ぴょう性に欠けるということで、光秀の「野望説」を唱えます。光秀も天下を狙っていたというものです。本能寺の変の2日前に京都の愛宕大権現で詠んだ歌とされるものの中に「時は今雨が下しる五月哉」という分が出てきますが、これが天下を取るという決意表明だといわれています。
まぁ、光秀が本当に天下を狙っていたとするならば、信長がわずかな手勢で本能寺に向かった”あの時”はまたとないチャンスであったのは確かですね。
そして、近年、もっとも多く言われているのが「黒幕説」です。秀吉黒幕説なんかは結果論といいいますか、秀吉が天下を取ったためにつけられたような説のような気がしますし、足利義昭黒幕説や家康黒幕説などいろいろ言われてきましたが、本能寺の変の後、大きな動きを見せていないんですね。信長にとってかわるために何らかの動きを見せてもいいはずですが、大きな動きは見せていません。
まぁ、ドラマや映画、漫画などでもいろいろな説を元に製作されていますが、すべて想像のお話ってことですね。
中国地方へ向かったはずの明智光秀。しかし、彼は動機は不明ですが、突如反旗を翻し、6月2日の早朝、信長の宿所であった本能寺を襲撃します。
光秀の軍勢は1万3000。対する信長は150〜160人ほどといわれています。普通であれば秒殺ですね。しかし、信長側は1時間は持ちこたえたといわれています。
その理由は、本能寺の構造です。現在の本能寺は当時の場所から少しずれているんですが、敷地も東西140メートル、南北270メートルとかなり大きな敷地がありました。しかも、周囲を堀や土塁で囲まれるちょっと寺というより城に近い構造だったんですね。
一番乗りで本能寺に攻め込んだという本城惣右衛門は、正面から入ったが広間には一人の姿も見えず、しばらくして着物を着た女が1人やってきた、という証言をしています。広い敷地に150人あまりですので無人の部屋がいくつもあり、探すのにも多少の時間は要したのでしょう。
ですが、それも時間の問題。森蘭丸、坊丸、力丸の三兄弟、ほかの小姓たちは、信長のいる御殿に集まり、周囲を固めます。信長自身も弓を取りますが、じきに弦が切れ、次に槍(長刀?)をとって戦います。
しかし、ここで信長も傷を負うことになります。史料によって、ここも違いがあるのですが、フロイスの「日本史」によれば長刀をもって反撃するも鉄砲で撃たれたとされていますが「絵本太閤記」では、障子越しに刺されています。
手傷を負った信長はやがて戦うことを諦め火を放つことを命ずると、「殿中奥深くに入り給い、内よりも御納戸の口を引立て情なく御腹めされ」と信長公記には書かれています。つまり、奥の部屋に入り、切腹したというのですね。しかし、本当に信長の最後が切腹だったのかどうかは、当時から疑問だったようです。
宣教師ルイス・フロイトは1582年11月5日にイエスズ会総会長に宛てた手紙の中で「ある人は信長が切腹したといい、他の人たちは宮殿に火を放って死んだという。」と書いています。つまり、死因については、不明だったということですね。
さて、信長を題材にした作品では、信長が火に囲まれ最後を迎えるクライマックスシーンがありますね。ここで信長は「敦盛」を舞います。
「人間(じんかん)五十年、下天(げてん)の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり。一度生(ひとたびしょう)を得て滅せぬ者のあるべきか」
人間がいきる50年という歳月は、神のいる天と比べれば、一瞬のことに過ぎない。ひとたび生をうけ、死なないものはいない。といった意味ですが・・・。
実は、信長が最後にこの「敦盛」を舞ったという史料は全くありません。まぁ、よく考えれば、奥の部屋に入っていった信長をこっそり家臣が覗き見していたなんてのもおかしな話ですし、敵が信長が踊っているのを指くわえて見ていたというのも有り得ませんね。つまり、仮に「敦盛」を舞っていても誰も見ている人がいないわけです。
では、なぜ最後に信長が敦盛を踊るシーンが定番なのか?
実は、今川軍との戦いの時に信長は「敦盛」を舞っています。今川軍が付城に攻めかかったという知らせを聞いた信長は、すくっと立ち上がると「敦盛」を舞い、その後、出陣の法螺を吹け、具足を付けよ!と命じ清州城を飛び出したとされています。あの一躍、信長の名が天下に響き渡る、桶狭間の戦いへと向かう場面ですね。
まぁ、これはこれでかっこよすぎというか、作り話っぽい気もしますが、「信長公記」に書かれている内容です。
信長の「敦盛」というと死を前にして諦めのような舞のイメージがありますが、本当は「人生は50年。限られた命を思い切り生き抜け!」みたいな感じに使っていたんですね。
未だ不明な部分の多い信長の最後。だからこそ、想像力を掻き立てられ多くの作品の題材とされてきたというわけですね。
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