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元寇という国難を救った英雄?北条時宗

  


北条時宗

 

 北条時宗は、1251年時頼の子として生まれます。時宗には、時輔という腹違いの兄がいましたが、時宗の母が時頼の正室であった為に家督は時宗に譲られることとなります。

 北条時宗が執権となるのは18歳の頃。その時、日本では大事件が起きていました。

 フビライ=ハーンから日本宛に詔書がもたらされたのです。使者は高麗の潘阜(はんぷ)という人物。この時、使者は蒙古の国書と高麗からの国書と2通の詔書を九州の大宰府に預けます。

 内容はというと、蒙古からは「昔から、小国は領土が接していれば和睦を納めようと努力するもの。高麗が来朝したように日本も同じように来朝するべきだ。もし、来朝しないなら攻めるぞ!」といったもの。さらに、高麗からの詔書でも「早く降伏したほうがいい」といった勧告がなされていました。

 しかし、驚くことに当時の幕府も朝廷もほとんど蒙古のことなど知る人がいない。チンギス=ハンの時代から中国大陸で勢力を伸ばし続けていた大国なのに、ぜんぜんそんなこと知らない・・・。

 結局、蒙古の国書は、すぐに鎌倉へと送られましたが、幕府では明確な結論が出されぬまま、朝廷へと預けられ、朝廷が出した結論は、バックレる!というもの。返事を出さずに無視攻撃です。

 北条時宗が執権となったのは、そんな折だったわけです。

 そして、蒙古軍は本当に日本に攻め入ってきます。1274年、北条時宗24歳の時の文永の役。そして、1281年、時宗31歳の時の弘安の役です。

 この蒙古からの来襲は見事、返り討ちにしますが、北条時宗は、元寇のドサクサにまぎれて、不安分子の一掃も行っています。

 1度めの元寇の後、再度、蒙古が攻め入ってきた時の為と九州、山陰の守護を自身の息のかかった北条一門に大幅入れ替えを行っています。これには、1272年に起きた兄、時輔の謀反計画が明るみにでて北条一門の内部抗争が要因にあったと思われます。

 しかし、北条時宗は、弘安の役の3年後、34歳の若さでこの世を去りました。