フランス革命A
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さて、今回は、前回のフランス革命の続きです。
戦費などがかさみ財政危機に陥っていたフランス。ルイ16世は、「もはや貴族や聖職者からも税をとらなきゃやってらんないなぁ」と考えますが、当然、これに彼らは大反対。では、みんなで話し合いましょうってことになりますが、これも大揉め。第三身分といわれる平民らは、国民議会を名のり、独自の動きを見せ始めます。そして、バスティーユ牢獄の襲撃やヴェルサイユ行進などの民衆の運動の中、ルイ16世は、ヴェルサイユからパリへ連行されていきます。ここまでが、前回のお話しです。
>フランス革命@
1791年にミラボーという人が死んでしまいます。この人は、国王と国民のパイプ役をしていた人。この人が死んでしまったことでルイ16世はマリーアントワネット王妃の実家であるオーストリアに逃げることにしたんです。マリーアントワネットといえば「パンがなければお菓子を食べればいいのに」という言葉が有名ですね。まぁ、これは彼女が言った言葉ではなかったそうですが、それっぽい世間知らずな雰囲気は出ていたんでしょうね。
王妃さまもそんな感じなので逃亡もうまくいきません。「逃亡」なのに大きな馬車に荷物を詰め込んで、途中で休憩せてみたり・・・。そんなんなのでヴァレンヌという街で捕まってしまいます。これをヴァレンヌ逃亡事件といいます。
このことで国民からの王への信頼が一気に失墜!しかも、国王は他国と通じていやがった!とまでいわれてしまいます。
この事件で怒りをあらわにしたのがオーストリア皇帝のレオポルト2世。なぜかって?レオポルトはマリーアントワネットのお兄ちゃんなんですね。この人がプロイセン国王と組んで「フランスの国王一家に危害を加えるようなことをすれば、オーストリアとプロイセンはフランスに介入する」と脅しをかけます。これがピルニッツ宣言です。
1791年憲法と呼ばれる憲法が9月3日に制定されます。これによって目的を達成した国民議会は解散します。新しい憲法のもとで立法議会が成立しました。そして、1972年3月にジロンド派と呼ばれる共和制の実現を望む派閥が内閣を組織することになります。
当時は、ジロンド派のほかにフイヤン派という、これ以上の改革の進行は望まないといった派閥の人たちもいて、当初はこのフイヤン派が政権を握ると思われていたのですがピルニッツ宣言など反革命の動きととらえられるような出来事が起きたのでフランス国民の支持はジロンド派に移っていったんですね。
さて、政権を握ったジロンド派は、内外の反革命勢力を一掃してやろうと考えます。フランス内では、王党派といわれる「絶対王政の復活を願う人々」です。国外の反革命勢力といえば、まずピルニッツ宣言をしてきたオーストリアとプロイセンです。
こうして、戦争が始まりますが、フランスはオースリア、プロイセン軍に次々にやられていってしまうんです。ついでに国内の王党派も活気づいていくという思ってたのと逆!の状態となってしまいます。
こんな状態救ったのはフランスの国民たちでした。パリの市民たちは地方から集まった義勇兵たちと連携し国王一家が住んでいるテュイルリー宮殿を襲撃します。これが八月十日事件(テュイルリー宮襲撃事件)です。
これによって王権の停止が宣言され、国王一家はタンプル塔という場所に幽閉されることになりました。
そして、9月20日にはヴァルミーの戦いにてフランスが初めて勝利を勝ち取ります。この時のフランス軍は寄せ集めの軍です。プロの軍人ではなく義勇軍なので素人同然。しかし、気合が違っていたんでしょうね。あの文豪ゲーテも「今日、そしてここから新しい世界史が始まる」と『滞仏陣中記』の中で記しています。
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ヴァルミーの戦い |
この激動の1792年の8月から9月の時期に現在のフランスの国家が生まれます。ラ=マルセイエーズです。これは、かなり勇ましい歌です。「起て!祖国の人々よ。今まさに栄えある時は来たのだ!」みたいな冒頭。最後は「武器を取れ、市民たち!進め!奴らの汚れた血にて野原を赤く染めようではないか!」と、こんな内容の歌です。
さて、役目を終えた立法議会に代わり、男性普通選挙により国民公会が成立。国民公会は王政の廃止を決議し1300年以上続いたフランスの王政はいったん幕を閉じます。
そして、1793年1月21日、ついにルイ16世はパリの革命広場にてギロチンの刑となり命を絶たれることになります。
さぁ、国王を殺してしまったフランス。その後は、ジャコバン派といわれる党派の独裁が始まることになります。
>フランス革命B
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