白河天皇による院政の始まり
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9世紀から始まった摂関政治(せっかんせいじ)も11世紀後半には藤原氏の后に子供が生まれず、藤原氏の血筋を殆どひいていない後三条天皇(ごさんじょう)が即位しました。藤原氏を外戚としない天皇は何と171年ぶり・・・。
この後三条天皇は荘園の整理を実施するなどの新政策を意欲的にすすめ、摂関家を押さえ込みます。
後三条天皇は僅か4年で天皇の在位を白河天皇(しらかわ)に譲り渡し、翌年亡くなりますが、後を継いだ白河天皇は14年間在位した後、幼少の堀河天皇(ほりかわ)に位を渡し、自らは上皇(じょうこう)となって政治を行いました。これにより、院政(いんせい)とよばれる政治スタイルが確立です。
この白河天皇は堀河天皇が成人してからも政治を続け、孫の鳥羽(とば)、さらにひ孫の崇徳天皇(すとく)と3代に渡って政治にたずさわり43年間もの間、院政を行いました。
その後も鳥羽上皇、後白河上皇と院政は100年にわたり続くのですが・・・。
ん?ちょっと難しくなってしまいましたね。
簡単にいうと、それまでは長きに渡って藤原氏が摂政、関白という地位について(摂関政治)権力を握っていた訳です。その藤原氏の血筋が遂に天皇家から途絶えた。そこで、天皇家による政権奪取!となったわけです。
この院政とは、天皇をやめて後も上皇となって政治を行うことをいいます。その上皇は院という場所で政治を行っていたので院政と呼ばれるようになりました。
でも、なんで天皇のまま政治を行わなかったの?権力を握りたかったら引退する必要ないじゃん!って思いますよね。
これには、深い理由があって上皇なら天皇のようにいろいろと縛られずに、私的な身分として武士などと主従関係を結ぶことができました。上皇なら武士を個人的な家臣として職や土地を与えて、かわりに仕事をしてもらうことができたのです。
天皇は天皇の権力を、上皇は新たな立場から権力を作り上げ、ダブルトップでそれぞれを補いながら政治権力を握ったのが院政という訳ですね。
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