イラクの歴史
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イラクといえば、サダム・フセインがまず頭に浮かび上がるという人は多いでしょう。長い間、日本のニュースや新聞で何度も目や耳にした名前ですからね。
では、どのような歴史を経てイランイラク戦争は起こり、そして、イラクはクウェート侵攻を行うようになっていったのか?さらにアメリカとどうして対立関係になっていまったのか?
それらを理解するために、今回はイラクの歴史について学んでいってみましょう。
さて、時代は第一次世界大戦にまで遡ります。当時のイラクの地域はオスマン帝国の統治下。イラクの辺りはバグダード州、バスラ州、モースル州と3つの州としてオスマン帝国に統治されていました。
しかし、第一次世界大戦でオスマン帝国は負けてしまうんですね。
そして、戦後、イラクにあたる地域は戦勝国のひとつであるイギリスの勢力圏と定められたのでした。
その後、民族運動の高まりのなかで1921年にイラク王国が成立、1932年には独立が国際的に認められることになります。
とはいえ、独立といってもまだイギリスの軍事支配下。そんな中での王政が続いていきましたが、1958年にイラク革命が起こります。軍人によるクーデターです。この革命の後、イラクにはカセム政権が誕生しました。
王様による統治から共和政。つまり、みんなで行う政治へと変わっていったんです。さらにはイギリスの支配から逃れることに成功。だたし、この頃からイラクの政権はソ連寄りになっていきます。
さて、クーデターで政権をとったカセム政権。しかし、このカセム政権もクーデターによって倒されてしまうことになります。1963年にバアス党のよるクーデターによってカセム政権は倒されます。
バアス党というのは、アラブ人中心の民族主義を唱える一派です。第二次世界大戦後に活動を開始していました。このバアス党によるクーデターによって政権はバアス党が握りますが、大統領にはバアス党ではないアーリフという人物が就任します。
このアーリフ大統領による更なるクーデータにより、その後、バアス党は政権から追い出されます。しかし、1968年には再びクーデータによりバアス党が政権に返り咲くのでした。この時、大統領になったのがバルクという人物でバルクが引退した1979年の後、彼の後任として大統領になったのがサダム・フセインです。
ところで、サダム・フセインが大統領になったのが1979年ですが、イランイラク戦争が起きたのは何年でしょう。
答えは1980年。つまり、フセインが大統領になってすぐにイランイラク戦争がはじまったんですね。
では、なぜイランイラク戦争は起こったのか?
ちょっとややこしくなりますが、イランイラク戦争以前はイランはアメリカと仲良し。イラクはソ連と仲良しという関係にありました。しかし、イランにてイラン革命が起こります。イランの国王がイスラム原理主義勢力に追い出されたんです。
この革命によってアメリカはイスラム原理主義が拡大してしまうのを恐れ、イランから離れイラクに接近するのでした。
ちょうどイラクもソ連との関係が2年ほど前から冷え始めてきていたころ。イラクにとっては、アメリカが近づいてきたのをチャンスととらえ、イランの石油利権を得るためにイランに戦争をしかけたのです。
なんといってもイラクの輸出総額の9割が石油ですからね。イラクにとって石油の利権を獲得することはどれほど大切なことなのかわかると思います。
しかし、予想に反してイランイラク戦争は長期化します。ついには、1988年、勝敗がつかぬままイランイラク戦争は終結。
イランイラク戦争によって大きな富を手に入れるはずが、逆に経済に痛手を負ってしまったイラクは、その後1990年に今度は豊かな石油をもつクウェートを併合しようと攻め込みます。これが1990年です。
ですが、この頃、世界では大きな変化が起きていたんですね。1989年の冷戦終結です。
イランイラク戦争では、イラクの肩を持っていたアメリカ。しかし、クウェート侵攻では一変します。なぜか?
アメリカは中東の国ではイスラエルととても仲がいいんですね。イスラエルというのは、ユダヤ教のユダヤ人の国です。アメリカにはユダヤロビーといってニューヨークなど大統領選に大きな影響を及ぼす地域に住んでいるユダヤ人たちがいるんですね。中にはとてつもないお金持ちもいるし組織力と投票率がすごいんです。ですから、彼らの仲間であるユダヤ人が住んでいるイスラエルと仲良くしておかなきゃならんのですね。
しかし、中東の多くがイスラム教です。ソ連との争いも終わったし、さぁてイスラエルへの支援を本格化するかなぁ。なんて、アメリカが考えていた頃なんですね。
中東の国々にしたらアメリカの支援がイスラエルに集まるのはよろしくない。もしかするとアメリカの支援するイスラエルVS中東のイスラム教の国々という図式になるかもしれない・・・。
そうなったときイスラム教の国の中で軍事的にリーダーとなりうる国は・・・。イラクなんですね。
イラクにしてみればアメリカが本格的に変な動きする前に経済を立て直そうとクウェートに攻め込んだわけです。アメリカにしてみたらイラクにこれ以上力をつけてもらっても困る・・・。
イラクがクウェートに侵攻しクウェートを19番目の州にすると宣言したことにより、アメリカと多国籍軍はイラクへ攻撃。1991年1月17日から空爆を開始し2月24日には地上戦も開始、その後はすぐにイラク南部が多国籍軍によって制圧されました。このアメリカを中心とした多国籍軍VSイラクの戦いが湾岸戦争です。
しかし、この後もイラクとアメリカの争いは続きます。イラクは1996年に反政府運動をつづけるクルド人居住地区を攻撃。また、2001年9月11日には同時多発テロも起こっていますね。
この911同時多発テロの後、アメリカのブッシュ大統領はイラクはテロリストを支援する国であると非難します。まぁ、1998年に国連による大量破壊兵器査察もイラクは断固拒否していますからね。それでアメリカとイギリスから空爆を受けたりしています。もう、アメリカにしたら「絶対、イラクのフセインはやっつける!」と心に決めてるんですねぇ。
その後もイラクは査察を妨害。2002年の査察の結果によっては武力行使も考えるとするアメリカをはじめとするイギリス、カナダ、オーストラリア。結果、やはり国際機関の査察は思うように進まず、3月にアメリカ軍がイラク攻撃を開始。これがイラク戦争です。
テレビでフセインの銅像が倒されるシーンを見た記憶が今も残っている人も多いでしょう。その後、フセインは逮捕されることになるのでした。
しかし、フセインという独裁者を失ったイラクは平和になるどころかテロリストたちが多発するという状況になってしまっています。
イラクに大量破壊兵器が存在するとして攻撃をしかけたアメリカ。しかし、この武力行使に反対意見を主張したのはフランス、ロシア、ドイツ、中国、あとはアラブ諸国など。日本は、得意の曖昧表現を貫き、それでいてアメリカの考えに従っています。
結果、イラクから大量破壊兵器は見つからず・・・。まぁ、日本も”全く関係ございません”というわけではないんですね。
では、私たちに何ができるのか?2014年にノーベル平和賞を受賞したマララ・ユスフザイさんは国連のスピーチで有名な言葉を残しています。
「1人のことも、1人の教師、1冊の本、そして1本のペンが世界を変えられるのです。教育以外に解決策はありません。教育こそが最優先なのです。」
また、こんな言葉も残しています。
「無人機では、テロの思想を殺すことはできません。そうした考えをやめさせて、子供たちに銃を持たせたくないのであれば本を与えなければなりません。」
銃よりもペン。爆弾よりも本ってことです・・・。
>イラクへの経済制裁失敗の理由
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