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板垣退助



 板垣退助(いたがき たいすけ)といえば、自由民権運動ですね。あと、有名な言葉があります。

 「板垣死すとも 自由は死せず」

 これは、板垣が暴漢に襲われた際に言ったといわれている言葉。しかし、よ〜く考えてみたら暴漢に襲われて超痛〜いって時に「板垣死すとも・・・」なんてかっこつけてる場合じゃないですよね。普通は・・・。

 そう、実は、これ新聞の報道記者によって書かれた言葉が後に板垣自身の言葉として広まっていったんです。だから、本人が言った言葉じゃないんですよ。

 さて、前置きはこれくらいにしておいて、今回は板垣退助と自由民権運動について学んでいきましょう。



 自由民権運動は、入試などでも出題率が高いのでしっかり覚えましょうね。

 板垣退助という人は、征韓論争に敗れて政界を去ることになります。征韓論っていうのは「武力行使でもいいから朝鮮に開国を迫ろうじゃないか!」っていう考えのこと。当時の朝鮮と日本は国交断絶状態でしたからね。なんとかして、開国を迫ってやろうって考えていたんです。

 その征韓論という考えをもった人が西郷隆盛や板垣退助でした。一方、これに慎重な姿勢を示したのが岩倉具視ら海外の進んだ文化を眼にした人たち。岩倉使節団といって、海外の進んだ文化を学んできたんですね。その間、日本の留守を任されていたのが西郷や板垣でした。

 岩倉らは「今はそんなことをしている時じゃない!日本は世界と比べて、まだまだ遅れているんだから国内の政治制度を充実させる方が先だ!それに朝鮮に今の日本が手を出したら欧米などは黙ってないぞ!」と西郷、板垣に猛反対。

 西郷、板垣らは、「おまえらが海外に行っている間、日本も近代化が進んでるんだよ!ビビリすぎだって・・・。」というような感じで意見は真っ二つにわかれるんですね。

 しかし、結局は西郷、板垣らの意見は通らず、彼らは辞職することになるんです。

 ですが、板垣退助が本当に力を発揮するのは、その後からでした。まずは、同じく政界を去った江藤新平、後藤象二朗らと愛国公党を組織すると
民選議員設立の建白書を提出します。

 当時は、薩摩藩や長州藩など一部の藩の人間のみが政治を行っていたんですけど、これを批判。国民が選んだ議員が政治を行うべきであると訴えたのが民選議員設立の建白書です。

 これが
自由民権運動のはじまりですね。

 
 △民選議員設立建白書

 ちょうど、その頃、北海道の開拓使の施設を政府のお偉いさんがタダみないな値段で民間に払い下げているというのが問題となります。みんなの税金を使って開拓した国の持ち物をとてつもなく安い価格で譲っちゃっていたんです。何か、怪しいですよね。裏でお金の匂いがプンプンしますよね。

 政府もこんな問題もあって、これ以上の混乱は避けたいと妥協案として10年後の国会を開くことを約束するんです。

 板垣は、これに備える為に自由党を結成します。自由党っていうのは、フランス流の政党。フランスは当時すでに王様のいない国になっていたので、すこし急進的といっていい政党ですね。対して大隈重信らは立憲改進党というのを結成します。こちらは、イギリス流の政党。イギリスは、王様がいるので天皇のいる日本に近い政治体制ともいえますね。ですから、自由党よりは穏やかな変化を目指していました。

 さて、自由民権運動ですが武力行使を嫌う板垣の意に反して一部が過激的な行動をとるようになっていきます。板垣の自由党でも加波山事件といって栃木県令三島通庸暗殺未遂事件を起こします。

 その他にも福島事件といって多大な土木工事の負担を強いられた農民たちが怒って自由党員たちと決起した事件です。また秩父事件といい世界的な糸の価格の暴落によって蚕から糸をつくる産業が盛んであった秩父地方で負債に苦しんだ人たちが救済を叫んで起こした事件です。

 これらの事件に政府は弾圧を強化。過激的な動きを望んでいなかった板垣は自由党を解党し、その後、自由民権運動は分裂、鎮静化していくことになります。