イタリア戦争
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イタリア戦争は、15世紀末に始まり数十年に及びます。フランスと神聖ローマ帝国との争い(ヴァロワ家とハプスブルク家の一面もある)ですが、この戦争は、ヨーロッパでの主権国家、および主権国家体制が形成されるきっかけとなった戦争ですので覚えておきましょう。
では、このイタリア戦争とはどういったものだったのか?なぜ、主権国家を形成するきっかけとなっていったのか?その辺を中心に説明していきますね。
当時のフランスはヴァロワ朝のもと国家統一を成し遂げていました。しかし、そのフランスにも大きな脅威となる存在があったんですね。それがハプスブルク家。ハプスブルク家は神聖ローマ帝国(ドイツ)の皇帝を輩出していましたが、さらにフランス付近のネーデルランドなどの領土も獲得していました。フランスにとってはヤバイ存在だったわけです。
そこでフランスが目に付けたのがイタリア。
その頃、イタリアの地は経済的に発展していましたが政治的には分裂抗争を繰り返している状態でした。このイタリアの高い経済力に目をつけ1494年、フランス国王シャルル8世はイタリアに侵攻します。しかし、これは、教皇や神聖ローマ皇帝らが同盟を結び対抗した為に失敗。広い意味でのイタリア戦争はこの1494年から始まります。
その後もイタリアをめぐる小競り合いは続きますが、1519年ハプスブルク家のスペイン国王カール5世が神聖ローマ皇帝(ドイツ)に就任してしまうんです。
フランスにしてみたら「おいおい、これじゃスペインとドイツからの挟み撃ち食らうじゃねぇ〜かよ!」って危機感を募らせます。フランスはスペインとドイツに挟まれてますからね。実は、フランス国王ヴァロワ家のフランワ1世も神聖ローマ皇帝に立候補をしていたんです。挟み撃ちは嫌ですから・・・。しかし、選挙でカール5世に負けてしまった・・・。
これでフランソワ1世は、本格的にイタリアに侵攻。これが1521年。狭い意味でのイタリア戦争はこの1521年から始まります。(イタリア戦争の始まった時期は諸説あって一定ではない)
そして、これをよしとしない神聖ローマ帝国がフランスと争うのでした。
つまり、神聖ローマ帝国やスペインを手中に収めたハプスブルク家とそれに脅威を抱いたフランスのヴァロワ家がイタリアをめぐり争った。ざっくり言えば、そういうことです!
このイタリア戦争は結果としてフランスの負け。フランスがイタリアへの干渉を放棄し、スペインはミラノ、ナポリ、シチリア、サルデーニャを獲得します。
イタリア戦争終結の年は1559年です。
では、このイタリア戦争がなぜ主権国家形成のきっかけになったのか?
そもそも主権国家ってなんじゃい?って思ちゃいますよね。主権国家とは、明確な国境線で仕切られた領土を持つ主権を完全な形で行使できる国家。つまり、現在では、一般的な国のこと。独立国とも言い換えられますね。
この時代のヨーロッパは、国王や皇帝がいましたが、地方には諸侯がおり、彼らは国王や皇帝から自立していたんです。王様の権力が弱かったんですね。王様よりも権威のある教皇の存在もありましたしね。
それがイタリア戦争をきっかけに主権国家となっていくんです。なぜか?戦争が長期化し大規模になってくれば、これまでの財政規模、軍隊の規模では遂行できなくなっていくんです。地方の諸侯ががんばっても単独ではどうにもできない。
そこで国王の登場です。中央集権化を進めなきゃなんないんです。国王の手足となってくれる官僚を使って徴税や地方行政を担当させ、常備軍を充実させていきます。
こうした中でヨーロッパは緩やかな共同体(カール5世などはスペイン国王でありながら神聖ローマ帝国の皇帝でしたし、フランスのフランソワ1世も神聖ローマ帝国の皇帝に立候補してましたからね。ヨーロッパが緩い共同体だったと納得できますよね)から国の境界線を引き主権国家へと変貌を遂げていくことになります。
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