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自由民権運動について



 自由民権運動とは、明治時代に行われた、国民の自由と権利を求めた政治活動をいいます。

 では、この自由民権運動について、すこし詳しく見てみましょう。

 
自由民権運動の始まり

 自由民権運動といえば、板垣退助ですね。彼は、征韓論争(明治6年の政変)に敗れ、1873年には政府から去っていました。

 しかし、完全に政治の世界から足を洗ったわけではなかったんです。1874年には、地元の土佐に政治結社、
立志社をつくり、当時薩摩藩や長州藩など一部の藩の人間のみが政治を行っていることを批判。「国民が選んだ議員に政治を任せるべきだ」と主張します(民選議員設立の建白書)。

 
 △民選議員設立建白書


 これが、自由民権運動の始まりです。

 翌1875年には、全国的な組織
愛国社を結成。この愛国社は、いったん解散となるものの、当初、士族が中心であった運動もしだいに地主や商工業者、農民などにも浸透していき、板垣らの呼びかけにより始まった国会開設の請願書には多くの署名が集まります。

 
政府が10年後の国会開設を約束

 ちょうどその頃、政府では、北海道の開拓使の施設を開拓使長官の黒田清隆が不当な安値で民間に払い下げようとしているというのが問題となります。みんなの税金で得た国の所有物を一部の人の判断で官僚や商人にタダみたいな価格で譲っちゃってるっていうんだから、ズルイしなんか怪しいですよね。これが問題となりつつかれるんです。

 政府もこれ以上の混乱は拡大させたくない。そこで妥協案として国会の開設を約束します。

 これが、1881年のこと。明治天皇より国会開設の詔が発せられ10年後に国会を開くことが約束されたわけです。

 
自由党の結成

 これにより、板垣退助はそれに備える為、フランスにならったといわれる政党を結成(
自由党)。また、大隈重信らもイギリス風の立憲改進党を結成しました。

 板垣の自由党は、フランス流。当時は、すでに王様がいない国となっていたフランス。対する大隈の立憲改進党は、王様のいる国であるイギリスをモデルにしているわけなので天皇がいる日本としては、自由党の方が立憲改進党に比べるとやや急進的な政党だったといえますね。

 しかし、この自由民権運動は、生活苦にあえいだ農民らの起した福島事件や秩父事件によって政府が取り締まりが強化していくことになります。

 言論の力で政府を動かそうと試みた板垣退助らの運動は、この頃になると言論運動のみならず、高利貸しや役所を襲うといった実力行使にでる人々も出てきてしまうのです。

 これらの事件により、政府の弾圧を受けた自由党はいったん解党。また、大隈重信らの入閣もあって、自由民権運動は分裂、沈静化していくことになるのでした。