徐福は神武天皇になった?
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徐福という人物をご存知でしょうか?中国の歴史に少し詳しい人なら知っていると思いますが、徐福という人物は秦の始皇帝から不老不死の薬を探してくるように頼まれて海を渡った人物です。でも、そのまま帰ってこなくなっちゃたんですね。
でも、この徐福。中国を出てその後、日本に来て神武天皇、つまり、日本で初めての天皇になった!なんて説も唱えられています。
これは、どういうことなのでしょうか?ちょっと詳しく見てみましょう。
徐福は、歴史家、司馬遷の歴史書『史記』の中の「秦始皇帝本紀」に出てきます。それによれば、紀元前219年に始皇帝の命令で徐福という方士が不老不死の妙薬を求めて海に出たと記されているのです。
始皇帝といえば、初めて中国を統一した人物ですね。大きな権力を持っていた人です。その人が唯一手にできなかったものが永遠の命。その永遠の命のために始皇帝は方士という中国古代の方術を操るとされた人、つまり永遠の命の妙薬、仙薬の存在を知っていますよ〜。といった人たちを300人くらい自分の周りに仕えさせていたといいます。その中の1人が徐福だったんですね。
徐福は、海中に三神山というのがあって、そこには仙人が住んでいる。その仙人から不老不死の薬をもらってくるんで船と人を用意してほしいと始皇帝に申し出たんです。
始皇帝は、その話を信じて徐福に数千人の童男、童女と船を用意しました。ですが、徐福は9年も経ってから手ぶらで帰ってくるんです。普通、殺されてしまいますね。でも、徐福は「いや〜。クジラが邪魔していて仙人がいるところまでたどり着けません。射手を用意してください。そうすれば、今度こそ、不老不死の妙薬を持ち帰ってきます」といって、今度は童男、童女3000人と技術者100人。さらには五穀の種を預かり海にでます。しかし、それ以降、徐福が戻ってくることはなかったんです。
「淮南衡山列伝」には、徐福は平原広沢を得るとそこの王となったと書かれています。海を渡り広い平原を見つけるとそこに居座って王様になったというんですね。
しかし、この徐福という人物。架空の人物なんじゃないか?ってずっと言われていたんです。ですが、1982年に徐福の家の家譜が見つかり、徐阜村という場所がかつては徐福村と呼ばれていたこともわかり、徐福の故郷と彼が実在していた証拠が発見されます。
どうやら、徐福は本当にいたらしい。では、その後、彼はどうなったのか?海で死んでしまったのか?とも思えますが、日本には古くから徐福渡来説が各地にあるんです。
富士山麓や紀伊半島の熊野、新宮。などなど、いたるところに渡来説があります。熊野、新宮には徐福の墓もあるんです。
徐福が海を渡った時代は、日本では弥生時代。徐福は、海を渡り、日本に到着すると稲作などの弥生文化を日本にもたらしたのではないかという説が最近では知られているのです。そして、「淮南衡山列伝」に書かれた平原広沢の王となったとするならば、日本の最初の天皇。神武天皇が彼なのではないか?などともささやかれています。
しかし、疑問も残りますね。なんで、各地に徐福伝説が残されているんだ?そんな日本各地を転々と歩き回る必要があるの?王様となったのであれば、どこかに拠点をつくり、自分で各地をめぐるようなことはせずに誰かに任せた方がいいような気がしますね。
この日本各地に残された徐福伝説にも、ある説が唱えられています。
徐福はひとりじゃなかったというのです。
始皇帝からの命を受けて海に出た徐福一行ですが、当然、船は1つじゃありません。そんな、数千人も乗せられる巨大な船が当時存在したか疑問ですしね。何隻もの船で海を渡ったと考えるのが普通ですよね。
ですが、当時の日本では、船を止められる場所が人工的に作られているわけがありません。そこで、適当に船が止められそうな場所を探し、分散して船を止めたので徐福渡来説が各地に残されているか?また、途中ではぐれてしまった船が日本各地に到着したのか?
そして、その彼らが、自分が徐福であると口々に名乗ったとするならば日本各地に徐福渡来説が残されているのにも納得がいくという説です。
これが、本当であれば、徐福じゃない誰かが徐福を名乗り、そして日本に稲作などの文化を伝え、王にまでなったという可能性もあるということですね。
まぁ、あくまで説ですけどね。ちょっと、興味深い説ではありますよね。
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