鎌倉幕府の滅亡
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1333年。幕府の衰退につけ込み後醍醐天皇(ごだいごてんのう)は何度も失敗しつつも遂に鎌倉幕府を滅亡させました。
では、その鎌倉幕府の滅亡の過程を少し詳しく見ていきましょう。
元寇の後、膨大な戦費を費やした幕府の財政は徐々に悪化していきました。功績をあげた御家人たちにも十分な恩賞を与えてやれない始末。生活が苦しくなっていった御家人たちは、やがて土地などを担保にお金を借りる者が多くなっていきますが、ますます貧しくなっていく・・・。
そこで、幕府は貧しくなった御家人たちを助けようと、質入、売却された御家人たちの所領をタダで返すように命令を出します。永仁の徳政令です。しかし、その効果は一時的であり、逆にそれでもお金が足りない御家人たちが再びお金を借りようと考えると、今度は貸す方が「あいつらに貸しても、幕府が味方して貸した金が返ってこない」とお金を貸すのを渋るようになってしまいました。
そうこうして、御家人たちは逆に幕府への不満を積もらせていきます。
一方、1313年に即位した後醍醐天皇は幕府の干渉を嫌い正中の変、元弘の変と2度に渡る討幕計画を実施しますが敗北。
しかし、1333年。幕府の衰退につけこんで、遂に後醍醐天皇はやってみせます!
諸国に挙兵を呼びかけ、それに応じたのが足利高氏(尊氏)(あしかが たかうじ)や新田義貞(にった よしさだ)。足利高氏は、初め幕府軍として京都に向かいますが途中で寝返り、六波羅探題を攻め攻略。新田義貞も鎌倉を落とし、遂に鎌倉幕府は滅亡しました。
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