歴史年代ゴロ合わせ暗記  

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小村寿太郎


 日本は、1858年に欧米諸国と通商条約を結びます。その条約の内容とは、外国の治外法権(領事裁判権)を認め、関税自主権をもたないといったひどい不平等条約でした。

 この不平等条約を改正するために必死に明治政府は動きますが、その中のひとりが小村寿太郎でした。



 小村寿太郎は、宮崎県の飫肥藩士の家に生まれます。維新後は、文部省から派遣されてアメリカのハーバード大学で学び、その後、司法省、そして外務省に入ります。

 随分、エリートコースのようですが、実は、小村寿太郎には借金がものすごくあったんです!父親が残した借金ですけどね・・・。その為、家具もない家に住んで、冬でも夏でも同じコートを着て、お昼はなんとお茶だけで過ごしたともいわれています。

 さらに、当時は薩摩藩や長州藩出身の有力者がひしめく時代。それらのバックのない小村寿太郎は出世もいまいちです。

 普通ならふてくされてもよさそうですけどね。しかし、辛抱強く、国家に献身する気持ちをもった小村寿太郎にやがてチャンスが巡ってきます。

 当時、清国駐在公使として義和団事件の処理にあたった小村寿太郎。義和団事件というのは、清で起こった秘密結社、義和団と貧しい農民らが起こした排外運動なんですけど、外国人やキリスト教会、列国の大使館区域を攻撃したので日本を含む8カ国が出動して鎮圧したんですね。まぁ、これで中国の植民地化がさらに進むわけなんですが、小村寿太郎は、この義和団事件処理で列強国と並ぶ日本の地位確保に成功したんですね。

 さらに、その時の経験からロシアが満州進出を狙っていることを悟った小村寿太郎。その後は、イギリスと組むか、ロシアと組むかの選択の中、小村寿太郎は日英同盟をとるべきであると強く主張し、結局、小村寿太郎の意見書が政府の方針として採択されました。

 この日英同盟は後の20年間の日本の安全と繁栄に役立ちます。

 さらに日露戦争後のポーツマス条約では、講和の内容が賠償金ゼロという民衆の期待に反するものであるということを理解した上で国内の激しい批判だまって耐え、ポーツマス条約を締結させます。

 これもすでに弾薬もお金も残っていない状態だった日本・・・。批判を受けてでも、このタイミングで講和をまとめるべきであると判断したんです。批判を受けてでも日本のために尽くしたわけですね。