歴史年代ゴロ合わせ暗記  

歴史年代ゴロ合わせ暗記中国の歴史項羽と劉邦

 

項羽と劉邦 


 項羽と劉邦といえば、漫画やドラマなどで有名ですね。このお話は、紀元前221年に中国を統一したという国の始皇帝が亡くなり不満を抱いていた民衆達がついに爆発!となった頃のお話・・・。

 始皇帝の時代には万里の長城(まぁ、これは今のような立派なレンガ造りのものではなく、すでに存在していた長城をくっつけたり、長くしたりしただけですけどね。)などの土木工事をたくさん行います。その後、後を継いだ2世皇帝も阿房宮や始皇帝陵などの土木工事を継続。これらの工事は民衆達の大きな負担となり不満も募ってくるんです。

 そして、始皇帝の死の翌年、中国史上初の農民の反乱、陳勝・呉広の乱というのが起きます。

 「やってられるか!もう、秦の王朝倒して俺たちで国をつくってやるぜ!」って感じです。

 しかし、この反乱は半年で秦によって鎮圧されます。

 ですが、反乱が鎮圧されたぐらいでは、1度爆発した民衆の不満は収まりませんでした。そして、ついに秦は、始皇帝の死からわずか4年で滅亡することになるのですが、その反乱で活躍したのが項羽と劉邦です。

 項羽は、名門出身のエリート。対する劉邦はヤクザの親分みたいな青年時代から警察分署長になるといったちょっと変わった経歴を持つ人物。

 彼らは、秦軍と激闘を繰り広げながら秦の都である咸陽を目指します。

 項羽は秦の強力な軍と戦いながらも何とか前に進みます。対する、劉邦は
張良などの優秀な軍師の進言を聞き入れながら殺戮などを極力さけ前へと進んできます。

 そして、反秦反乱軍の中で劉邦はなんと項羽よりも先に秦の首都である咸陽を制圧してしまうのです。でも、これは項羽にとっては非常に腹立たしい。自分よりも身分の低い奴がでしゃばって功績を立ててしまったんですからね。

 項羽は怒り劉邦を討とうとしますが「やばい」と感じた劉邦は、配下の者にお膳立てさせ項羽に謝罪する機会を得ます。コレが有名な「鴻門之会(こうもんのかい)」です。

 この宴会にて項羽の軍師だった
范増(はんぞう)という人物は、劉邦の将来性を感じとり項羽に「こいつは、生かしておくと面倒なことになりかねないから殺した方がいいですよ」と伝えます。しかし、項羽は結局、劉邦を取り逃してしまうことに・・・。

 とはいえ、項羽はその後、劉邦が先に入ったはずの咸陽にて秦王室の人々を処刑し、秦なき後の権力者として君臨します。しかし、項羽の行った政治は強権的で民衆からの支持を得られることはできませんでした。

 一方、命は助かったものの項羽によって当時辺境の地であった漢中に追いやられた劉邦(これは、今の左遷の語源ともなっていますよ)。しかし、彼はここで名軍師
韓信を得ることになります。ちなみに、この韓信という人物は「韓信の股くぐり」というので有名な人物。若い頃、町でならずものに言いがかりをつけられ「俺の股をくぐったら許してやる」といわれ怒りに堪えながらも素直に股をくぐったというお話。「俺はいずれ大物になる!こんなつまらぬ事で相手を斬って遺恨を残すことはできぬ。」と先の先をよんで耐え忍んだという人物です。

 また、劉邦自身の人柄も人気を集め、やがて劉邦は項羽と対峙することができるほどの力をつけることになります。

 これが、
楚漢戦争。項羽の「楚」と劉邦の「漢」の戦いです。途中で名軍師、范増を失った項羽はますますピンチとなり、垓下の戦い(がいかのたたかい)によりついに劉邦の軍に敗れることになります。

 この時の項羽の状態は漢軍に周りを囲まれ絶体絶命!さらに、夜にその項羽の軍を取り囲む軍勢から聞こえてくる歌は、なんと故郷の楚の歌・・・。これは、すでに劉邦の軍が楚を落とし、しかも、楚の民の気持ちは、劉邦の元へと早くもなびいているということ・・・。これが「四面楚歌」の由来ですね。

 結局、項羽はその後、一戦交えるものの、自害し、自分の配下の者に「これをもって行けば、お前は助かるだろう」といって自分の首を与え自害しました。

 劉邦は、項羽の意を汲み、その遺体は丁重に付したといわれています。

 項羽に勝利した劉邦は紀元前202年にという王朝を打ち立て、自身は高祖(こうそ)という名で皇帝として君臨することになります。