黄河文明と長江文明
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中国の農耕文明には、黄河流域を中心としたものと長江(ちょうこう)流域を中心としたものとがありました。では、まず黄河文明から見ていきましょう。
黄河文明
黄河文明は、地域や系統別で多くの文化に別けられますが、代表的なものが中流域に栄えた仰韶(ヤンシャオ)文化と下流に栄えた竜山(ロンシャン)文化です。
仰韶文化は、紀元前5000年頃〜紀元前4000年頃にかけた栄えた文化です。この文化で代表的なものは彩陶(さいとう)といわれる陶器。その名の通り色彩を施した陶器ですね。出土した場所は河南省の仰韶村で発見されたので、その村の名をとって仰韶文化と呼んでいます。当時の人々は粟や麦、米などを自給自足して暮らしていたといわれています。
竜山文化は、紀元前2000年頃〜紀元前1500年頃に栄えた文化ですので、仰韶文化よりもだいぶ後の文化です。この頃には、ろくろを使い陶器を作っていたと思われます。有名な陶器が黒陶(こくとう)です。彩陶に比べると薄く、さらに強くできており、かなり実用面で進化しています。
これらの文化の発展により農業の生産性も進歩し集団社会も大きなものへとかわっていきます。それらの集団が周りの集団を吸収したり、手を組んだりして、やがて大きな連合王朝として殷(いん)が生まれるのです!
長江文明
かつては、黄河文明が中国文化の発祥であり、その後、長江流域に文明が伝わったと考えられていました。しかし、1970年代の本格的な発掘調査により、長江文明は黄河文明とは明らかに系統が異なるということがわかりました。つまり、黄河文明が長江文明に伝わったわけではないということですね。まぁ、ある程度の交流はあったと推測できますが、お互いの文明が影響し合いながら独自の発展を遂げていったようです。
長江文明は紀元前14000年頃〜紀元前1000年頃に栄えたといわれていますが、何しろ、本格的な発掘が1970年代でしたので、未だ長江文明は殷への影響を与えたのか?黄河文明との交流はどの程度あったのか?など不明な部分が多く残っています。
ちなみに、長江流域は温帯で水と森林に溢れていました。森に田んぼ作るようなものなので農業開発には時間がかかったようです。この長江文明で有名な遺跡は浙江省(せっこうしょう)の河姆渡遺跡(かぼと)が有名です。(BC5000年ごろ)
黄河文明は、これに対して乾燥地帯だったので水さえ確保できれば比較的簡単に耕地開発ができたようです。
>殷王朝の時代
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