三河の一向一揆
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今川氏のもとで人質となっていた徳川家康(松平元康)。しかし、桶狭間の戦いにて今川義元が織田信長に敗れると家康は長い人質生活から解放されることとなります。
そして、織田信長と同盟を結び、三河に戻って岡崎城主となるのでした。
家康としたら、もうやる気満々です!必死にがんばりすぎちゃうんですね。
三河各地の城や砦なんかの工事のために年貢を増やしたり、賦役を課したり・・・。これで農民が起こります。
また、上宮寺や本証寺といった一向宗の有力な門徒たちも家康の政策に不満を抱くこととなります。(兵糧とするための穀物を寺から奪うなどの行為や無法者を捕まえるために寺に勝手に入ってきたなどの行為があったといわれています)
さらには家康に反感を抱いていた豪族、今川氏の残党らが彼らに加勢し、その上、家康の家人であった本多正信、蜂谷半之丞らも反家康方に回ってしまいます。
家康としたらかなりのピンチなわけです。
1563年秋ごろからおよそ半年間、三河各地で一揆が起こり、家康側との激しい戦いとなります。
しかし、結果としては1564年1月の馬頭原合戦で家康は勝利し、優位なところで和睦というかたちをとります。
これで家康はようやく三河を平定することができました。
その後、寺などを徹底的に破壊。一向宗の僧侶には改宗を迫り、改宗しなければ国外追放と厳しい態度を見せた一方、一揆に参加した家臣には寛大な処置で臨み、結果として家臣や三河武士との結束を固めることとなります。
家康は、この三河一向一揆を乗り越え、戦国大名として大きな一歩を踏み出したのでした。
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「大樹寺御難戦之図 三河後風土記之内」
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