水野忠邦の生涯
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水野忠邦 |
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水野忠邦は、肥前国唐津藩主の次男として1794年に生まれました。
後に兄が亡くなってしまったため、水野忠邦が世子となります。
この唐津藩、表向きの石高は6万石といわれていますが、検地を行い藩の石高を決められた以降、恵まれた田畑により実際の収入は20万石ほどもあったといいます。つまり、払わなければならない税金は6万石に対してですが、実際の収入は、その3倍以上もあった訳ですからかなりの隠し金を持っていたということです。このお金が後に水野忠邦を出世へと導いていきます。
ところで、唐津藩というのは長崎の近く。唐津藩には、長崎の警固役という特別な任務がありました。そのために、唐津藩にいたのでは、お金は溜まりますが、それ以上の出世は見込めません。そこで水野忠邦は浜松藩に目をつけます。
浜松藩も唐津藩と同じ6万石。実際の石高は唐津藩の方がちょっと上ですが、浜松藩から後に老中となっている人物もかなりいる出世コース。しかし、石高が同じだから、そっちに移りたいといっても簡単にOKがでるものでもない。そこで、水野忠邦はお金を使い賄賂に走ります。
当時は、将軍・家斉の時代。その御側人でいたのが水野忠成という人物。おぉ、水野忠邦と名前がそっくり。そう、水野忠成は水野忠邦とは同族であったので、そのよしみもあり、見事、浜松との国替えを成功させます。
その後も水野忠邦は、賄賂攻勢にて大阪城代、京都所司代へと絵に描いたような出世コースを歩んでいきます。そして、水野忠邦41歳の時、やっとのことで老中の座を手に入れるのです。
老中となった水野忠邦でしたが、当時は大御所・将軍 家斉が実権を握っており、思うように政治を動かすことが出来ませんでした。しかし、その家斉も1841年にこの世を去り、いよいよ水野忠邦による改革が始まります。これが江戸の三大改革のひとつ天保の改革です。
しかし、彼の行った改革は厳しすぎると内外から批判を浴び、1843年には老中を罷免されてしまいます。後に老中に返り咲いたりもしていますが、その時には、水野忠邦に力はなく短期間で辞任となっています。
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