森鴎外
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森鴎外というと小説家のイメージが強いと思います。学校で習いましたものね。森鴎外といえば、舞姫や阿部一族、雁(がん)、高瀬舟などなど・・・。
しかし、実は森鴎外、お医者さんでもあったんです。
森鴎外は1862年、現在の島根県津和野町で医者の家に生まれました。小さなころから頭が良く神童として有名だったようです。
上京すると年齢を2つ多く偽り、第一大学区医学校予科(今の東大医学部)に進学。19歳で卒業します。その後は、軍医となりドイツに留学することになりました。
もう、この時点ですんごい人ですね。
そのドイツで医学の勉強をする一方、近代西洋思想や文学も学び、帰国すると訳詩集「於母影(おもかげ)」を妹の小金井喜美子、落合直文らと共同で発表します。
それまでは、西洋の詩を五七調や七五調で訳したものが多かったのですが、鴎外はなるべく原作の雰囲気を残したいということで五七調や七五調以外にもいろいろな音律を取り入れて翻訳するなどのチャレンジをしています。
この於母影で得た原稿料を元に今度は「しがらみ草紙」という文芸評論誌を創刊します。
このしがらみ草紙の半年ほど前に発表したのが「舞姫」ですね。平安時代の仮名文を模して書かれた「雅文体」で書かれていますので現在の小説に慣れてしまうと読むのに苦労しますね。
『石炭を早や積み果てつ。中等室の卓(つくえ)のほとりはいと静かにて・・・』
冒頭の部分ですが、森鴎外作品が難しいという学生の気持ちはわかります。
その後、日清戦争が勃発。鴎外も従軍し、戦争が終わると台湾に赴任後、日本に戻ります。
帰国後は、しがらみ草紙に続く雑誌「めさまし草」を発行しますが、文学だけでなく、医学の面でも批判を繰り返していたことなどが災いしたのか、九州の小倉に左遷されてしまいます。
そこから10年ほどは、めだった文学活動はしておらず、しかしながら陸軍にて信頼を取り戻し、軍医の最高位にまで上り詰めています。そして、文学活動を再開するのでした。
1909年に文芸誌「スバル」に「ヰタ・セクリアリス」を発表。これは、ちょっとだけエッチなんですね。タイトルが「性的生活」を意味するラテン語ですからね。内容としては、ある哲学者の若き頃の「性欲的生活の歴史」が手記の形で記されているといったもの。これは、当時、卑猥であるという理由で発売禁止になってしまいます。
1912年には、「興津弥五右衛門の遺書」を発表。鴎外、初の歴史小説となりますが、これ以降、歴史小説を書き始めます。
1913年に「阿部一族」を発表。短編小説ですが、江戸時代に肥後藩で起きた事件が題材となっています。主君の死の際に殉死を許されず主君に反逆し滅びていく阿部一族を映画いています。
1915年には「山椒大夫」を発表。これは浄瑠璃などで語り継がれてきた有名な演目のひとつである「さんせう太夫」をもとに創作したお話。後に映画化されヴェネツィア国際映画祭で銀獅子賞を獲得しています。
その後、1916年に「高瀬舟」(江戸時代の随筆集、「翁草」の流人の話を参考として書いた)、「渋江抽斎」(江戸時代の津軽藩の侍医の話)などを発表し1922年に60歳で亡くなっています。
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