歴史年代ゴロ合わせ暗記  

歴史年代ゴロ合わせ暗記室町幕府成立と南北朝時代 

室町幕府成立と南北朝時代 

 
 1333年に鎌倉幕府が滅びると
後醍醐天皇(ごだいごてんのう)は建武の新政(けんむのしんせい)をはじめます。これは、後醍醐天皇自らが中心となる政治であり、公家重視の政治であった為に武士たちは不満の声を募らせました。

 そこで、武士たちの声を代表したのが
足利尊氏(あしかがたかうじ)です。彼は、鎌倉幕府を倒すのにも手がらを立てていましたし家柄も源氏の血を引く名門の出。

 1335年、北条時行が関東で反乱を起し、その鎮圧の為、派遣された足利尊氏は、平定後も関東に居座り、後醍醐天皇に反旗を翻します。

 そして、後醍醐軍の新田義貞らを破り、京に上ぼり足利尊氏は新たに光明天皇(こうみょうてんのう)を立てたのです。

 あれ?でもこれでは、後醍醐天皇と光明天皇、天皇が2人になってしまう・・・。そうです、京都の朝廷(光明天皇・北朝)と奈良の朝廷(後醍醐天皇・南朝)と2つの朝廷が同時に存在する時代を迎えるのです。(
南北朝時代

 日本に朝廷が2つ存在するなんて!と、ちょっと異常な時代ではありますが、その要因は鎌倉時代からありました。

 実は、鎌倉時代の末期から朝廷はすでに2つの系統に分かれていたのです。
持明院統(じみょういんとう)と大覚寺統(だいかくじとう)です。第88代天皇である後嵯峨天皇(ごさが)がいったんは息子の後深草天皇(ごふさくさ)に位を譲ったものの、後にその天皇を強引に辞めさせ、もうひとりの息子、亀山天皇に皇位を譲らせてしまいます。もちろん、これに後深草天皇は不満です。これでは、後深草天皇の息子も天皇になれませんしね。

 そこで、幕府は円満な解決として交代で天皇になるように意見を出すのです。

 持明院統と大覚寺統で交互に天皇を立てる制度が89代〜96代後醍醐天皇まで続いてきたわけですが、後醍醐天皇(大覚寺統)は、そんなの面白くありません。なので、持明院統の皇族たちはあまり恵まれているとはいえない生活をしていました。

 そこに、足利尊氏は目をつけたのですね。ちなみに、足利尊氏が幕府を開こうとしたら、天皇から征夷大将軍に任命される必要があります。そこで、尊氏は、持明院統から天皇を立てて、室町幕府を開いたのです。


室町幕府と南北朝について更に詳しく

足利尊氏の肖像画は実は別人だった!