戦艦「武蔵」
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戦艦「武蔵」は長崎の三菱造船所にて製造されました。進水式は1940年11月1日。戦艦「大和」の進水式の3ヵ月後です。
ところで、この戦艦「武蔵」、実は、外観や排水量など「大和」と瓜二つ。まぁ、最終的な改装では、「大和」の15.5センチ砲が6門に対して「武蔵」は12門。12.7センチ砲が「大和」24門、「武蔵」12門となりますがそっくりですね。
しかも、この戦艦「武蔵」も「大和」と同じように殆ど実践で活躍することなく海の底に沈んでいくことになります。
1944年、10月23日。アメリカ軍の大船団がフィリピン上陸をめざし、レイテ港に集結しているという情報を得た日本軍は戦艦「武蔵」「大和」などを擁して南下していきます。
ですが、この日本の動きをすでに把握していたアメリカは、待ち伏せして集中砲火!ここで戦艦「武蔵」は沈むことになります。とはいえ、敵の魚雷を受け続け、なんと9時間もの間耐え続けた姿は壮絶・・・。結局、武蔵は魚雷20本と17発の爆弾を受けて沈んだといわれています。
ちなみに「大和」はどうなったかというと・・・。なんと連絡ミスで「武蔵」沈没の後、レイテ港突入目前で身をひるがえしてレイテ港を離れていってしまうんです。
これは、未だ謎とされていますが、一説には「大和」に「北に敵艦隊を発見したので、撃退せよ!」との電報が届いたので、それに従ったといわれています。しかし、誰が送ったのか?また「大和」にのみ届いて他の艦には届いていなかったのでまったくの謎!当時、指揮をとっていた栗田建男は戦後もこの「謎の反転」について語ることはなかったのですが、あのまま本来の支持通りにレイテ港に突入していても多くの死者を出しただけだろうというと栗田を援護する声も現在ではあります。
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