歴史年代ゴロ合わせ暗記  

歴史年代ゴロ合わせ暗記日米修好通商条約

   

日米修好通商条約

 
 日米修好通商条約(にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく)とは、アメリカの総領事ハリスが日本にアメリカとの貿易を始めるよう強く要求し、幕府の大老 井伊直弼(いい なおすけ)が反対派の意見を押さえ込み1858年に結んだ条約のことです。では、この日米修交通商条約についてすこし詳しくみてみましょう。

 1853年、日本にアメリカのペリー率いる黒船が来航し、翌年、日本はアメリカとの間に日米和親条約を結びます。この条約により、下田と函館の2港を開き、長きに渡った鎖国が終わりを告げます。しかし、この時点では、まだアメリカ船の燃料や食料の補給や一部の場所でのアメリカ人の休息を許可したにすぎず、貿易は開始していませんでした。

 その2港の内、下田に総領事として1856年に着任したのがハリスです。彼は、日本に貿易を始めるように条約を結ばせるという任務をアメリカ本国から命じられていました。

 ハリスは、老中 堀田正睦(ほった まさよし)と交渉を開始。中国侵略を進めるイギリスの危険性を強調し、友好的なアメリカと条約を結んだ方が得であると説得をします。交渉の末、堀田は、条約を結ぶしかないだろうと考え、朝廷の許しを得るために京都に向かいますが、中級、下級公家ら88人も座り込み猛反対!結局、堀田は朝廷の許しを得ることが出来ず、これが元で辞職となります。

 しかし、新たに大老に就任した井伊直弼は、なんと反対派の意見を押さえ込み、朝廷の許可も得ぬまま、この半ば強制的なアメリカの要求に答えます。1858年のことです。この時、日本とアメリカの間に結ばれた条約が日米修好通商条約です。

 ですが、この日米修好通商条約は実はとんでもない内容でした。

 まず、
函館、新潟、神奈川、兵庫、長崎の5港を開港すること。神奈川が江戸に近いのは問題だけど、まぁ、この辺は仕方ない・・・。

 問題なのは、日本はアメリカに、この条約で
治外法権(ちがいほうけん)を認めてしまったことです。治外法権とは、アメリカ人が日本で犯罪を犯しても日本では裁くことができないということ。つまり、アメリカ人は日本で犯罪を犯しても、日本で裁かれることはなくアメリカに帰されてから罪を償うのです。これでは、日本で大きな罪を犯しても、アメリカでは小さな刑罰で済んでしまうこともあります。また、被害者も賠償金など十分な補償を受けられず、詳しい思いをした人も多かったでしょう。

 また、
関税自主権を日本が持たないという、無茶苦茶な約束も結ばされました。

 これは、ちょっと難しいのですが、普通、外国から入ってくる商品には税金がかけられています。なぜかというと、外国から安い商品が大量に日本に入ってきてしまうと商品によっては日本の生産者では太刀打ちできない場合が出てきます。例えば、海外で生産された安い車が日本に大量に入ってきてしまう。すると「性能は日本車の方がいいけれども、安い外国車でいいや」とそちらばかりが売れてしまったとしたら?そう、日本の車メーカーは潰れてしまいます。だから、外国から入ってくる商品には税金をかけて価格を上げているのです。これは、自分の国の生産を守るために、日本に限らずどこの国でもやっていること。しかし、その関税をかける権利をもってはいけないというのです。

 買う個人としては、安く外国の商品が買えて嬉しいのですが、日本で生産した商品が売れないとなると日本人は仕事はなくなる。しかも、国内での生産が減少するということは、災害や戦争の時、その外国の商品が入ってこない状況となった場合、必要なものまで不足する事態になる。

 しかたがなかったとはいえ、こんな不平等な条約を結んでしまった井伊直弼は、この後、批判の嵐を受けることになるのです。