1534年に尾張(おわり)の戦国大名、織田氏に生まれた織田信長(おだのぶなが)。尾張の一大名に過ぎたかった織田信長でしたが、1560年の桶狭間の戦い(おけはざまのたたかい)にて今川義元(いまがわよしもと)を討つとその名は一躍世間に知れ渡ることとなります。
信長が「俺が戦乱の世を勝ち抜いて天下一になってやる!」と強く思い始めたのはその頃からだと言われています。
1568年には足利義昭(あしかがよしあき)を奉じて京都に入り、彼を室町幕府15代将軍にすえます。
この頃、信長は「天下人になるには、まず朝廷と将軍のいる京都を制し、そこから全国に支配を広げよう」と考えておりました。
しかし、その義昭とも次第に険悪なムードに・・・。
やがて、足利義昭は武田信玄(たけだしんげん)、朝倉善景(あさくらよしかげ)、浅井長政(あさいながまさ)ら大名や延暦寺(えんりゃくじ)、石山本願寺(いしやまほんがんじ)などの宗教勢力に決起をうながし、「信長包囲網」を築き上げます。
この「反信長軍」は一時、織田信長を追い詰めもしましたが、やがて信長の手により延暦寺は焼き討ち。1573年には義昭は信長により京都から追放。続いて朝倉氏、浅井氏も滅亡され、石山本願寺も信長により屈服させられます。
1582年にはついに武田氏をも滅ぼし、天下統一も目前・・・。
と思われていた矢先、突如、部下の明智光秀(あけちみつひで)の裏切りにあい、京都の本能寺(ほんのうじ)で自害することになるのです。(本能寺の変)
この織田信長の才能は戦のみならず、政治でもその常識にはとらわれない天才ぶりを発揮しておりました。
支配地では楽市楽座(らくいちらくざ)を奨励し、商工業が自由に取引できるようにしたり、関所を取りやめ流通を活性化さっせたり。また、新しいもの好きといわれた信長は鉄砲にも早くから目をつけ、1575年の長篠の戦では騎馬隊で襲い掛かる武田軍を鉄砲隊で応戦したのは有名な話です。
また、1576年には当時では例を見ない斬新な城、絢爛豪華な安土城(あづちじょう)も築き上げています。
群雄割拠の戦国時代を生き、天下統一目前で死を遂げた織田信長。後に彼の夢は、部下の豊臣秀吉(とよとみひでよし)により達成されることとなるのです。
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