桶狭間の戦の真実 〜信長の奇襲作戦ではなかった〜
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1560年(永禄3年)、織田信長は僅か2000の兵を率いて奇襲作戦を実行し、10倍もの兵力を誇る今川義元を破ったといわれる桶狭間の戦い。
しかし、これにはもうひとつの説があり、信長による奇襲作戦ではなく、正面攻撃であったともいわれています。
桶狭間の戦いは、織田信長が、今川義元の本隊が桶狭間で休息を取っている所を気づかれぬよう密かに兵を迂回させ豪雨に乗じて接近し、桶狭間の丘の上から今川軍に奇襲をかけ、見事今川軍打ち破ったというのが定説です。
しかし、信長に関する史料の「信長(しんちょう)公記」には、信長軍は中嶋砦からまっすぐに今川軍に向かい正面攻撃をしかけたととれる記述があります。
もし、こちらが本当だとすれば、信長は桶狭間の戦いにて奇襲作戦を仕掛けたのではなく、正面攻撃であったというのが真実となりますが・・・。
しかし、奇襲作戦もなく10倍もの兵力を誇る今川軍をどうやって倒したのか?
実は、今川軍は確かに大軍であったのには間違いないのですが、その軍勢は、各地に散らばり桶狭間に向かう軍勢は信長軍の2倍ほどだったのではないかといわれています。しかも、今川軍は駿河からの遠征。その中には物資の運搬などを行う非戦闘員も含まれていることは間違いない。さらに戦闘員の方も遠征の疲れが出てきていたであろうことは想像できます。それならば、信長軍の2000の兵力でも十分に勝ちは期待できますね。
信長は、こういった状況を作り出し、今川軍に正面から立ち向かい勝利したという説です。
桶狭間の戦いについては、「信長公記」をはじめ「信長記」、「絵本太閤記」など兵力をはじめ、記述がまちまちであり不確かなことも多いのです。
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