大阪冬の陣
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大阪冬の陣
関ヶ原の戦いから14年。徳川家康はついに慶長19年(1614)方広寺鐘銘事件(ほうこうじしょうめいじけん)をきっかけに豊臣家を挑発し、同年10月大阪城に向けて兵を挙げました。これが、大阪冬の陣の始まりです。
それでは、大阪冬の陣についてちょっと詳しく見てみましょう。
1600年の関ヶ原の戦いは、石田三成VS徳川家康の争いであり、徳川軍にも豊臣家に恩のある大名が多くおりました。つまり、この時点では、豊臣VS徳川という形式には家康もできなかった訳です。慶長8年(1603)に、家康は征夷大将軍として任命され江戸に幕府を開きますが、それでも豊臣秀吉の子、秀頼は家康に擦り寄ってくる様子もみせない。家康が亡くなった後は、政権を秀頼に返すだろうと楽観ししていたともいわれます。その証拠に、家康の孫娘、千姫も秀頼にとついでいますし・・・。
しかし、徳川家康は、将軍の座をわずか2年で退き、子の秀忠にその椅子を譲ってしまう!これは、「今後政権は徳川家によって世襲されていきますよ〜、豊臣方には渡しませんよ〜」という家康からのメッセージでもありました。
将軍の座を降りたとはいえ、幕府の実権は家康に握られていました。江戸には秀忠、自身は駿河に移り住み軍事、外交、文化、経済などは実質、家康が判断を下します。
慶長11年(1611)、70歳となった家康は、豊臣秀頼との面会を求めます。秀頼が拒んだら、それをきっかけに豊臣家を潰す作戦です。豊臣家の家臣、加藤清正らはそれを理解しており、上洛を拒む秀頼の母、淀殿を説得し二条城にて家康と秀頼との面会を実現させます。
豊臣秀頼というと、なんだか弱々しいイメージを持っている方も多いと思いますが、家康はこの時、家臣の本多正信に「秀頼は、なかなかの人物に成長した。」と語ったそうです。
「御所柿は独り熟して落ちにけり、木の下に居て拾う秀頼」
御所柿とは家康のことであり、家康が死ねば、後の政権は秀頼が拾うだろうといった意味の当時の落書きです。京都の街にこういった落書きがされていたくらいだから世間でも徳川の時代は長く続かないだろうとみていた人も多かったのかもしれませんね。
70歳という自分の年齢と立派に成長した豊臣秀吉の息子、秀頼。さすがの家康にも焦りが見えてきます。
この頃、家康には幸いなことに加藤清正、浅野長政、池田輝政らの豊臣家の重臣たちが相次いで他界していきます。
そして、慶長19年(1614)の方広寺鐘銘事件です。これは、豊臣家が再建を進めていた方広寺の鐘に「国家安康、君臣豊楽」と銘が刻まれていたことに家康がいちゃもんをつけたことがきっかけとなります。国家安康は家康の字を切り離し、徳川家を呪い豊臣家の繁栄を願う下心が見えると難癖をつけ、豊臣家を挑発するのです。
これに、豊臣家も弁明をしますが、家康は聞く耳もたず・・・。逆に「淀殿を人質としてよこせなど」と豊臣方が聞き入れられない無理難題をつきつけ話をこじらせます。この嫌がらせに、秀頼母子は、堪忍袋の緒が切れたとばかりに浪人たちを大阪城に集め軍備を整えるのでした。
「豊臣方が挙兵した!」
この知らせに73歳の家康は、ただちに諸大名に出動命令をだし、大阪冬の陣が始まります。
大阪冬の陣のきっかけは、方広寺の鐘銘の言いがかりから始まり、豊臣方が軍勢を集めたことにより開戦するのでした。
この争いでは、真田幸村らの活躍により、大阪城に籠る豊臣方は善戦します。攻めきれない家康は和議を持ち込むのですが、この和睦の条件も家康によるしたたかな計算でありました・・・。
>大阪夏の陣へ 続く・・・
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