オランダの独立戦争
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オランダがスペインから独立を勝ちとるまでには、長い年月を要しました。独立運動が始まったのが1568年。そして、最終的に独立を勝ちとるのが1648年ですので80年もかかったんです。この事からオランダ独立80年戦争などといったりもしますね。
さて、オランダ(ネーデルラント)は、なぜ独立を求めたのでしょうか?
まずは、宗教の自由ですね。オランダ(ネーデルラント)には、カルヴァン派といわれる人たちが多くいました。カトリックでは、比較的卑しい職業とされていた商業でもカルヴァン派では、職業に真摯に従事することはいいことだとされていたんですね。オランダ(ネーデルラント)のフランドル地方では、中世以降毛織物工業を端緒に商業がとても発達していたんです。この商工業者にとってカルヴァン派の信仰は心の支えだったわけです。
ですが、スペインのフェリペ2世という人はカトリック大好き!という人なのでカルヴァン派の人たちをあまり快く思っていなかったんです。だから、オランダ(ネーデルラント)のカトリック化を進めようと彼らの自治権を大幅に削ろうとします。
また、経済的にもフェリペ2世は本国優先の経済政策なども行っていたので、これらもネーデルラントの人々が反発する原因となります。
さらにいえば、フィリペ2世の支配はネーデルラントの人々にしてみたら外国人による支配ですからね。民族的にも嫌悪感はどうしたって出てきますし、当時はイギリスやフランスなども反スペインの態度でしたから、こういった国の影響もあったといわれます。
このようなことが原因となりオランダの独立運動は動き出していくことになるのです。
1568年にネーデルラント17州が蜂起!このネーデルラント独立運動の初期のリーダーはオラニエ(オレンジ)公ウィレム(ウィリアム)という人でした。
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オラニエ公ウィリアム |
当初、スペインは残虐な方法でこの独立運動を止めようとしますが、独立派はこれに屈しません。それならばとネーデルラントの独立運動を分断してしまおうと考えた人物がいました。それがパルマ公という人。
このパルマ公という人が何をしたかというと・・・。
オランダ(ネーデルラント)の南側を説得して独立運動をやめさせてしまうんです。ネーデルラントには、真ん中にライン川が流れています。その北と南では民族が違うんですね。北はゲルマン系でドイツ人に似ている。南はラテン系、つまりスペインやフランス寄りといえます。
宗教も北はカルヴァン派であるのに対して南はカトリックが多かった。ですので、南側は説得し易かったんです。パルマ公は南側の10州を説得し独立運動から離脱させることに成功します。
残った北部の7州は同盟を組んでがんばります!この同盟をユトレヒト同盟といいます。
彼らは、スペインと過酷な戦いを続け1581年にはネーデルラント連邦共和国の独立宣言が発せられることになります。
ですが、これはネーデルラント側の一方的な宣言。スペインが「ハイ。そうですか。」と許してくれるはずもなく、その後も18年間逃走は続き、その後スペインとの休戦協定がやっと結ばれることになります。これが1609年。これによって事実上、オランダの独立は対外的に認められることになります。ただし、国際的に独立の承認がなされたのは1648年。ウェストファリア条約により国際的な独立が認められることとなります。
ところで、そもそも何でネーデルラントはスペイン領になったのか?
政治的に分裂状態にあったネーデルラントは14世紀末にブルゴーニュ公国の一部となります。1477年にブルゴーニュ公女とオーストリア大公の結婚によってネーデルラントはハプスブルク家の所有となりました。ハプスブルク家は1556年にカルロス1世がネーデルラントをフェリペ2世に与えてその後はスペイン領となります。
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