お家騒動が招いた応仁の乱
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応仁の乱(おうにんのらん)とは、1467年、20万を超える兵が全国から京都へ集結。二手に分かれて実に10年もの間戦い続けた戦乱です。
では、応仁の乱について少し詳しく見ていきましょう。
室町幕府8代将軍の足利義政(あしかがよしまさ)は、男子に恵まれず跡継ぎ問題に困っていました。そこで、義政は弟の義視(よしみ)に後を継がせることに決めます。
ところがです。その後、妻の日野富子との間に(義尚・よしひさ)という男子が生まれてしまいます。親としては、自分の子に後を継がせたいと考えるのは当然の事。そこに、妻である日野富子の強い説得もあり、義政は後継者を義視から子の義尚に変更してしまうのです。
それに怒ったのは義視です。
「いったん喜ばせておいてなんじゃそりゃ!」
これにより、将軍家は義尚派と義視派の2手に分かれてしまうのです。
同じ頃、有力守護大名の畠山氏や斯波氏の家でも家督争いが起こっておりました。
畠山氏の家では、将軍家とほとんど同じパターン。
畠山持国(はたけやま くにもち)には、跡継ぎが出来なかった為、弟の持富(もちとみ)を養子にしますが、その後、義就(よしひろ)という実子が生まれてしまいました。そこで、弟、持富の子である政長(まさなが)と持国の実子、義就の間で跡継ぎ争いとなります。
また、斯波家でも斯波義健(しば よしたけ)の養子である義敏(よしとし)が重臣と対立し家督を取り上げられると、新しく養子となった義廉(よしかど)と義敏の間で家督争いが始まります。
まさに、人よむなしい(1467年)応仁の乱ですね。
さらに、彼らは家督争いを優位に薦めようと、実力者を後ろ盾にしようと考えます。山名宗全や細川勝元です。
実は、この山名宗全(やまな そうぜん)と細川勝元(ほそかわ かつもと)も娘婿の関係なのですが、ちょうど、この頃対立中・・・。
そんなこんなで、細川勝元側(畠山政長、斯波義敏、足利義視)東軍約16万VS山名宗全側(畠山義就、斯波義廉、足利義尚)西軍約12万の争い勃発です。
開戦直後、細川軍が足利義尚を主君として担ぎ、翌年には山名軍が義視を担ぐなど敵味方入り乱れての戦乱は1477年まで続きます。10年もの間、戦い続けた結果、幕府の力は衰退し、その後の群雄割拠の戦国時代へときっかけとなるのです。
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