オスロ合意
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現在でも新聞などでイスラエルとパレスチナの争いを報じるニュースを目にしますね。このイスラエルとパレスチナ問題ですが、実は一度1993年に和平が実現するチャンスがありました。
それがオスロ合意です。
1993年9月、ノルウェーのホルスト外相が仲介し、パレスチナの自治をめざす合意が成立しました。ノルウェーの首都であるオスロで交渉が進められたのでオスロ合意といいます。
パレスチナ自治区であるヨルダン川西岸とガザ地区からイスラエル軍は出ていってパレスチナの自治を認めますっていう約束がかわされたわけです。
この合意の調印式はワシントンのホワイトハウスでクリントン大統領を保証人として行われました。
しかし、1995年11月にイスラエルのイツハク・ラビン首相が暗殺されてしまうのです。犯人は、イスラエルの右派強硬派の若者でした。パレスチナに妥協したことを不服として怒りをぶつけたのです。
このラビン首相亡き後をいったんはラビンと同じ労働党のシモン・ペレスがかわって首相となりますが、その後の選挙で右派政党のベンヤミン・ネタニヤフが首相になると和平交渉の進展が見られてなくなっていきます。
1995年の選挙では、労働党のバラクが首相に選ばれ、再び和平交渉は動き出すのですが、この時、右派政党のアリエル・シャロンという人が数役人の護衛を連れてイスラムの聖地に足を踏み入れるというパフォーマンスを見せるんです。それまでは、イスラム教の大切な聖地にユダヤ人が足を踏み入れることは暗黙のルールの中でユダヤの政治家も避けてきていたんですけど、シャロンはパレスチナ側を挑発するためにわざと行ったわけです。
このシャロンの目論みは当たり、パレスチナ人たちは抗議の投石をイスラエル治安部隊に繰り返します。これにイスラエルは発砲で応戦。これで、和平どころではなくなります。
そして、衝突は拡大していき、イスラエルの民衆も和平どころではない。それよりも治安を優先すべきだという考えが広まり2001年にはシャロンが首相として当選するのでした。
当然、シャロンが首相になってからは和平交渉はいっこうに進まなくなります。せっかくのオスロ合意も水の泡ってわけです。
しかし、その後、もう一度、パレスチナにとっては大きなチャンス?がありました。
クリントン政権では、オスロ合意の保証人をつとめ、その後もパレスチナのアラファト議長とイスラエルのバラク首相の仲介役などを努めてきたアメリカ。
その後、アメリカの政権はブッシュ大統領へと受け継がれます。ブッシュ政権は、この中東問題には、あまり積極的とはいえませんでしたが、イスラエルとパレスチナの争いが激しさを増してくる中である提案を持ち掛けます。
パレスチナ自治区ではく、パレスチナの国家を認めるというものでした。2002年6月のことです。
パレスチナ人にとっては、これ以上ない提案!すぐにでも実現に向けて動き出したいところですが、ブッシュは、パレスチナ国家樹立のために1つ条件を出していたのです。
それがアラファト議長の引退。
実際は、アラファトと名指しはしていないんですが、「新たな指導者を必要としている」と発言していますので、事実上の引退を突き付けるものでした。
まぁ、実際にアラファト議長の任期は2000年に切れていて、本来は選挙で新たな指導者を決めなおさなければならなかったんですどね。イスラエルとの争いが続いていて選挙ができる状況ではないという理由でアラファト議長がずっと議長の職にとどまっていたんわけです。なので、アメリカの言うことも最もなんですが、これは、パレスチナ側としては厳しい条件でした。
パレスチナ政府では、賄賂が当たり前のように行われ、アラファト議長を批判すると逮捕されたりすることもありました。しかし、彼がパレスチナのカリスマであることは間違いなかったんです。実際にアラファトが亡くなった後にはガザ地区にて主導権を巡る争いが起こっていますからね。当時、アラファトを引退させて、国家を樹立してもうまくいかなかったかもしれませんね。アラファト抜きでは、イスラエルとの交渉もうまくいかず、最悪、アラファト引退、パレスチナ国家樹立ならず・・・。なんてことも考えられたかもしれません。
2004年11月には、アラファト議長も亡くなり、後任には穏健派のアッバス議長が就任しました。その後、ガザ地区ではファタハとハマスが激突し、ハマスが全権を掌握していますが、アメリカとイスラエルはハマスをテロリストと認定して、ハマス抜きでアッバス議長と交渉を続けています。そして、ガザ地区は現在、周囲をイスラエルに包囲され、電力不足、食料不足、医療品不足に悩まされています。
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