ピューリタン革命@
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イギリスは17世紀に2つの革命を経験することになります。「名誉革命」と「ピューリタン革命」です。今回は、ピューリタン革命についてお話しますね。
ピューリタン革命の原因
まずは、ピューリタン革命の原因から。17世紀初めのイギリスではエリザベス1世が亡くなり、代わって王位につくことになったのがスコットランド王のジェームス6世でした。エリザベスには子供がいませんでしたからね。血は薄いんですけど一応、ヘンリー8世の血を引いているジェームス6世がイギリスの王も兼任することになったんです。ちなみにイギリス王としての名はジェームス1世です。
これが1603年のお話。日本では江戸幕府がはじまった年ですね。
スコットランドの王様がイングランドの王様となったので両国は同君連合となりました。我々は、イギリス、イギリスと簡単に言ってますが、1707年より以前は北のスコットランドと南のイングランドは別の国だったんですね。だから、サッカーワールドカップではイングランドとスコットランドとして別々の代表として参加しています。
さてイングランド王となったジェームスは「王権神授説」を唱えます。まぁ、これは王様とは、神から授かった権利を有しており、その権利は議会や司教、民などにより制限されるものではない。」といった説です。ですから、それまでのイングランドでの伝統政治であった「国王であれ議会を無視して政治を行うことはできない」といった決まりをないがしろにし、イギリス国教会以外の宗教。カトリックや清教徒(ピューリタン)らに弾圧を加えていきます。
そして、ジェームスが亡くなると彼の次男であったチャールズ1世が王位につくことになります。1625年のことです。(ちなみに長男は早くに亡くなってしまっていました)
このチャールズも父同様に議会は無視。1628年には議会が「権利の請願」といわれる文書を王に提出。チャールズは王権を制限するこの請願をしかたなしに受け入れます。しかし、翌年には、この請願の内容も黙殺、白紙化してしまい、議会すら解散させてしまい封じ込めました。
ですが、1639年に再び議会を召集せざるを得ない事態となります。スコットランドの反乱です。
スコットランドの反乱
チャールズは、父のジェームス同様にイングランドの王であると同時にスコットランドの王です。イングランドの方は16世紀の宗教革命にてイギリス国教が主流となっていましたが、スコットランドではプレスビテリアンとよばれるカルヴァン派の新教徒が多かったんです。
チャールズとしては、スコットランドもイギリス国教になってもらい宗教的にイングランドとスコットランドを統一させたいと考えていました。しかし、これにスコットランドがNOを突きつけたわけです。
イギリス国教を強制されスコットランドでは反乱が起きます。これを鎮圧するために戦費がかかります。この戦費を捻出させる為には税金をもっともっと増やさなければならないわけです。増税ですね。これには議会を召集して認めてもらう必要があります。
こうして、チャールズ1世は1640年に11年ぶりとなる議会を召集しました。
ですが、チャールズの思惑通りには進みません。「あいつ都合悪くなると議会召集するよなぁ。なんか、いいなりになりたくない・・・。」ってことで議会が増税を認めなかったのです。チャールズは、すぐに議会を解散!わずか3週間で議会は解散させられてしまったので、これを短期議会といいます。
ですけど、再び議会を召集せねばならない事態になっちゃいます。スコットランド軍が国境を越えて侵入してきたんです。この時に召集した議会は1653年まで続くことになるのでこちらを長期議会といいます。しか〜し!やっぱり、チャールズ1世の要求に応じるどころか議会は逆に王に対する不満を爆発!大抗議とか大諫奏(だいかんそう)などといったりしますが王に対しての不満爆発の文章を議会は提出するんです。
チャールズはもちろん眉を吊り上げ、反王権派の議員の逮捕を命じますがロンドン市民らは「王様やりすぎじゃない?」ってことで議会派になびく人が多数。
こうした流れの中、王と議会はついに武力衝突が始まることになります。
これがピューリタン革命の始まりです。1642年の出来事ですよ。
>ピューリタン革命A
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