劉備、孫権の妹と結婚する
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赤壁の戦いの後、敗れた曹操は、荊州北部の江陵や襄陽を部下に守らせ、自身は北へ撤退し、軍を立て直しにかかります。
勝利した孫権軍の周瑜は、荊州南郡に攻め入り夷陵を制圧、その後、江陵の曹仁と1年ほど激戦を繰り広げ南郡を手に入れます。
孫権も揚州から北上し、曹操領の合肥を攻めますが、ここでは必死の抵抗に合い、撤退を余儀なくされます。
さて、その頃、劉備は・・・。
やはり、荊州の南部の武陵、長沙、桂陽、零陵を攻略し手に入れました。
しか~し、コレ、実は、結構劉備はズルいんですね。
劉備の戦いには、孫権側、呉の兵も力を貸していたのに自分の領地としてしまうんです。
孫権側は、これに激怒します。しかし、赤壁の戦いの時、初めに劉備に会いに来た孫権軍の魯粛が「ひとまず劉備殿が他に土地を得るまでは貸し与えるかたちにしてはどうか?」と慰めた為、期限を設けて折り合いをつけるかたちとなりました。
また、孫権と劉備との同盟をより強固にするために劉備のもとへ孫権の妹を嫁がせることになります。
孫権の妹、孫夫人は20歳をすぎての輿入れでした。ちょっと当時としては遅いですね。
聡明であったあ武芸好きで気性の激しい女性だったといいます。ですが、三国志演義によれば、劉備が亡くなった後に孫夫人は悲しみのあまり長江に身を投げたといいますから仲睦まじい夫婦であったようです。
<赤壁の戦い
>周瑜死す
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