歴史年代ゴロ合わせ暗記  

歴史年代ゴロ合わせ暗記留魂録
   

吉田松陰の遺書・留魂録

 

 留魂録(りゅうこんろく)とは、吉田松陰が死の2日前の10月25日に書き始め、翌日の26日夕刻までに書き上げた弟子たちへ宛てた遺言です。

 全16節、5000字という長文の遺言ですが、その内容を少し見ていきましょう。

 まず、冒頭には「
身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも 留置まし大和魂」と辞世の句が綴られています。この身はたとえ武蔵野地に朽ち果てようとも、日本を思う魂だけでも、この世にとどめて置きたい。という松陰の思いが込められています。

 次に松陰は「
志誠にして動かざる者は、未だこれあらざるなり」(意味:誠意を尽くして事にあたれば、どのようなものでも必ず動かすことができる。逆に不誠実な態度で事にあたれば、何ものをも動かすことは決してできない)という孟子の言葉を胸に真心が伝われば幕府の役人もわかってくれるであろうと考え、まだ発覚していない老中暗殺計画などを話したが何も変えることはできなかった。しかし、誰も恨むことはない。自分の徳が薄かったためのことだと思う。と、投獄された経緯を語っています。

 それから松陰は、弟子たちに向けて出来る事なら自分の意思を受け継いで欲しいといった言葉を書き綴ります。「
私は三十歳で、すでに四季は備わっており、また花咲き実は結んでいるはずだ。それが実のよく熟していない籾殻なのか成熟した米粒なのかは、私の知るところではない。もし同志の中でこの私の心あるところを憐れんで、私の心を受け継いでくれるものがいるのであれば、それはまた種子が絶えないで、毎年実ることと同じことだろう。同志よ、そうしたことをよく考えてほしい」と人間の一生を四季に当てはめ自身の思いを書き残しました。

 そして、最後に「かきつけおわりて後」とし、歌を五首並べています。

 「
心なることの種々かき置きぬ重ひ残せることなかりけり 呼び出しの声まつ外に今の世に待つべき事のなかりけるかな 討たれたる吾れをあはれとみん人は君を崇めて攘仏へ 愚かなる吾れをも友ととめづる人はわがとも友とめでよ人々 七たびも生きかへりつつ夷をぞ攘はんこころ吾忘れめや

 (もう思い残すことはなにもない 役人の呼び出しの声を待つほかに、今の世の中に待つべきことはない 処刑される私を哀れと思う人は天皇を崇めて外国人を追い払ってほしい 愚かな私を友としてくれる人は諸君で結束してほしい 7回生き返ろうとも外国を追い払うという心は私は決して忘れない)

 7回生き返るというところは、足利尊氏に敗れた楠正成が自害する際に「七生滅賊」を誓ったことに、松陰自身を重ね合わせています。

 この松陰の遺言である「留魂録」は確実に弟子たちの手に渡るよう2通作られ、1通は弟子たちへ送られ、その後、彼らは奮起し明治の近代日本を作り上げていくことになります。もう1通は同囚の沼崎吉五郎に託され、それが今日に伝わっています。