中国・清王朝
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1644年、農民反乱軍により北京を攻略されると明の崇禎帝(すうていてい)が自害し明王朝は終わりを告げます。
では、その後の中国を支配することになったのは、この農民反乱軍かといえば、そうではありません。女真族(じょしんぞく)が起した清でした。清軍は、明の武将であった呉三桂(ごさんけい)の手引きで北京に入ると農民反乱軍を鎮圧し、その後は北京を占領。そして、清の順治帝(じゅんちてい)が中国皇帝として即位します。
それにしても清王朝をつくった女真族って何者じゃ?
別に女性だらけの集団ではありませんよ。彼らの原住地は中国の東北地方。朝鮮半島のちょっと上くらいにいた民族ですね。12世紀はじめに金という国をつくって宋をガンガン追い込んだ民族です。後にモンゴル帝国により滅ぼされますが、17世紀はじめに、このバラバラになった部族をまとめ上げて後金(こうきん)という国をヌルハチという人が建国し明からの独立を宣言するのですね。そして1636年には国号を清としていました。だから、中国皇帝として即位した順治帝は清の三代目首長です。
とはいえ、女真族はたった200万人程度だったといわれるほど少数民族。対して漢民族は何億人もいる。漢民族からの反発はなかったのか?
これを女貴族たちは、「アメとムチ」の使い分けでうまく支配することに成功します。
ムチの方で分かり易いのが髪型。女真族独特の辮髪(べんぱつ)という髪型があるのですが、これを漢民族にも強要します。辮髪とはいってみれば「ラーメンマンカット」です。
なかなか勇気が入りますね。
次に「文字の獄」。これは、清に対して批判的思想を持つ学問や人物を徹底的に弾圧していくのです。
もちろん、これだけでは反感をかうのでアメもあげます。
満漢併用性(まんかんへいようせい)。これは満漢偶数官制(まんかんぐうすうかんせい)ともいいますが、簡単にいえば役人を女真族と漢民族を同じ人数だけ採用するっていう方策です。部署の役人は奇数人にはしない。必ず10とか20とか2で割れる数人にするわけです。そして、同じ数だけ漢民族と女真族を採用するわけですね。これなら漢民族も納得です。
こうした政策により清はモンゴル、チベットを含み史上最大の中華帝国へと成長していくのですが、19世紀になるとヨーロッパ諸国からの標的となってしまいます。
当時の清王朝では、対外貿易港を広州1港に絞っていました。清にとっての貿易はあくまで従属国からの朝貢であると捕らえていた清王朝では自由貿易を拒否していたのですね。
それに、とりわけ不満を感じていた国がイギリス。イギリスは中国の茶を仕入れるために禁制品であるアヘンを密貿易していました。その結果、清ではアヘン中毒者が急増。そこで、欽差大臣の林則徐(りんそくじょ)が密貿易船のアヘンを大量に没収したことがきっかけとなり、イギリスと清は戦争になります。(1840年アヘン戦争)
いざ、戦争が始まってみると近代兵器を有するイギリスの圧勝。1842年にはイギリスが勝利をおさめ、清は上海などの5港の開港や賠償金の支払い、香港島の割譲、南京条約を結ばされることになりました。
さらに1856年にはイギリス船籍のアロー号の乗客員が清に逮捕されるという事件がおきます。ちょうど、その頃、広西省にて宣教師が殺害された事件にて清に抗議をしていたフランスを誘い、イギリスは清に再び戦争を仕掛けました。(1856年アロー戦争)
清は、この戦争にも敗れ、1858年天津条約、1860年北京条約を結ばされます。これにより、天津、南京など11港の開港など屈辱的な条約を結ぶことになり、清王朝の威信は大きく揺らぎ始めます。
その後も清仏戦争、日清戦争にも敗れ、国内でも清王朝打倒の声が高まっていくことになります。清は女真族が建てた国ですね。やはり、漢民族主権の国家でなくてはダメだ!という声が若者達の間で囁かれてくるようになるのです。
そこで登場したのが、孫文(そんぶん)という人物。彼は1894年に革命結社、興中会(こうちゅうかい)を結成し三民主義(民族の独立、民権の伸張、民生の安定)を唱えます。
そして1911年には、清王朝が財政危機を乗り越える為に打ち出した鉄道の国有化に反対する革命派の運動が全国へと広がり、14省が清王朝からの独立を宣言。そして、1912年には、孫文が臨時大総統となり中華民国が成立します。
清は。これに対抗すべく、袁世凱(えんせいがい)という軍人勢力の実力者を立てて革命政府に対抗しますが、なんと袁世凱は自身を臨時大総統にするという条件で清を裏切ってしまいます。
もうどうにもならなくなった清王朝は、皇帝である溥儀(ふぎ)が退位することになり、清王朝の長い歴史に幕を閉じることになるのでした。
<明王朝の時代
>中華民国の成立
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