歴史年代ゴロ合わせ暗記  

歴史年代ゴロ合わせ暗記賤ヶ岳の戦い
   

賤ヶ岳の戦い


織田信長の死後、天下盗りへと動き出した秀吉。いよいよ、織田家筆頭家老であった柴田勝家と
賤ヶ岳の戦いにて雌雄を決する時がついにきます。

1582年(天正10年)、秀吉は越前北庄(福井県)にいる勝家が雪で身動きがとれなくなるのを待っていたかのように動き出します。

まずは、勝家の養子である勝豊の長浜城を囲みます。ここを抑えてしまえば、勝家は雪の中、なんとか出陣しようと試みても南下することはできません。

次に、信長の三男、織田信孝の岐阜城を包囲。信孝は、これにたちまち降伏。その後、信孝と謀った滝川一益が兵を挙げますが、秀吉は5万の兵にて押さえ込み、亀山城も落していきます。

これらの動きに、柴田勝家も流石に黙って見てはいられません。1583年(天正11年)、雪解けを待たずに勝家は動き出しました。およそ3万の兵を率いて出陣。秀吉もこれを迎え討つべく5万の兵にて出陣します。

両軍は、険阻な山に布陣したため、先に動いたほうが不利とあって両者にらみ合いが続きます。そこを付け狙ったのが一度は降伏していた信孝。信孝は、再び滝川一益とともに挙兵し、秀吉配下の大垣城下に侵攻し、各所に放火。このままでは、秀吉軍が勝家と信孝により挟み撃ちの形となってしまいます。

そこで秀吉は、中川清秀にその場を任せ、2万の兵を連れ、信孝を討ちに向かいました。

すると、今度は、留守を任された中川清秀がピンチに・・・!秀吉がいなくなったのをチャンスと見た勝家軍の佐久間盛政は1万5000の兵で奇襲をかけます。佐久間盛政は、中川清秀隊を攻略すると、本隊殲滅を狙い一気にかたをつけようと進みます。

しかし、柴田勝家は、秀吉のことをよく知っているだけあって「秀吉のことだ。何か考えているかもしれない。」と、盛政に一時引き返すよう命令を出します。しかし、信孝を討ちに美濃まで向かっている秀吉がどうこうできるものでもない。と、盛政は撤退を渋るのでした。

ところが、勝家の予想通り、美濃の大垣に滞在中の秀吉は、勝家軍が動いたと聞くや否や、1万5000の兵を率いて、52キロはなれた木之本まで僅か5時間で兵を返します。

まさか、秀吉の軍が帰ってくるとは、夢にも思っていない盛政の軍の元へ松明を掲げた秀吉軍が続々と
賤ヶ岳に現れだす。やばいっと思った時には、すでに遅しです。これにより、攻守は一気に逆転。柴田軍は全軍が敗走。勝家は、自刃に追い込まれることになるのでした。

この52キロもの道のりを引き返してくる秀吉の大垣返し。実は、これには裏があって、柴田軍が動き出したら、すぐに兵を返す準備が秀吉軍には出来ていたといいます。膠着状態が続く中、秀吉みずからが兵を動かし、柴田軍の動きを誘うという誘導作戦です。そのため、秀吉は、美濃と近江の間の道の村に金をばら撒き、兵糧や乗り換える為の馬、松明など用意させていたといいます。


賤ヶ岳の7本槍