歴史年代ゴロ合わせ暗記  

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孫策の死


 孫堅の死(191年)の死により、18歳という若さで孫家を継ぐことになった孫策。

 しかし、経済的に厳しく寿春に拠点を移したばかりの袁術を頼りざるを得ない状態となっていました。

 父、孫堅は遺産こそ残さなかったものの、程普、韓当、朱治、黄蓋といった武将、そして孫策の親友である周瑜という財産は残してくれました。

 ですが、袁術配下に入るも、その待遇は袁術の私兵も同然・・・。太守の地位を約束に孫策が攻略した九江郡や盧江郡は、結局袁術直属の配下に太守の地位を奪われる始末です。

 いよいよ、袁術が皇帝を僭称すると愛想をつかし絶縁!

 さらに199年、曹操に敗れ勢いをなくした袁術が病死すると、孫策はその残党を討ち、残る兵力を自分の支配下に置くことに成功します。



 その勢いのまま、孫策は江東へ攻め込むことを決意。その江東には、父、孫堅を討った黄祖(劉表の配下)がおります。父の敵討ちも兼ねての猛攻となりますが、黄祖は残念ながら取り逃してしまうのでした。しかし、江東の平定には成功。

 その翌年の200年。曹操と袁紹が官渡の戦いにて対峙している隙をついて、曹操の本拠地を攻め、献帝を迎えようと考えた矢先・・・。

 孫策が単騎で出かけた時のことでした。かつて呉郡太守であった許貢という人物の部下に襲われ重傷を負うことになるのです。

 許貢は、朝廷に孫策の勢いを恐れて「孫策を都に召し抱えて、その勢いを抑えるべき」と上奏しようとしたことがありました。それを知り、孫策は兵士に命じて許貢を殺させてしまったのです。

 それを根に持った部下によって孫策は重傷を負うことになります。傷は浅かったものの矢に毒が塗られており、孫策は長期療養を余儀なくされます。

 三国志演義には、その怪我の療養中のことが書かれています。

 重傷を負いながらも居城へ戻った孫策。療養中、袁紹の使者をもてなすために宴会を開いていました。その時、于吉というお札や聖水をつかって病気を治したりする仙人のような人が通りがかった為、兵士などは持ち場を離れ于吉を礼拝しに行ってしまいます。

 孫策は、これでは秩序が乱れると怒って、于吉を捕まえると「雨を降らせてみろ!降らせることができたら命を助けてやる!」といって、于吉に祈祷をさせます。

 見事、雨は降ったのですが、それでも孫策の怒りはおさまることなく、結局、于吉を殺してしまうのです。

 于吉の死後、孫策は鏡を見るたびに于吉の姿が現れるため、やがて鏡を殴りつけて絶叫した時に口が裂け、孫策は死亡したと描かれています。

 しかし、この孫策の最後の話は正史三国志には書かれていません。干宝の「捜神記」という本に于吉が孫策を呪い殺す話が書かれており、これを三国志演義が採用したもののようです。

 そして、この孫策の跡を継ぐのが孫権です。孫策は、弟の孫権に死の直前に言葉を残しています。

 「軍勢を動員し、天下の群雄たちと雌雄を決することにおいては、おまえはわたしに及ばぬだろう。しかし、賢者の意見を聞き、才能ある者を用いて、江東を保つことでは、お前は私よりも優れている」

 こうして、この孫紹が幼い為、弟の孫権を後継に指名して孫策は26歳という若さで死去するのでした。

 19歳であった孫権は、兄の死を嘆き、なかなか泣き止まなかったが、孫策の参謀の張昭が彼を激励し、その手をとって馬に乗せ、外に出て軍陣を視察させました。

 志半ばで孫策が亡くなり、後を任された孫権。突然、消えたカリスマの穴を埋めるのは容易ではありません。しかし、その全軍の指揮を任され、孫権と共に軍を立て直していくのが周瑜でした。


官渡の戦い


三顧の礼