宋の時代
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907年に唐が滅ぼされると中国は「五代十国時代」に突入します。
この混乱を治めようと動き出したのが960年に宋を建国した趙匡胤(ちょうきょういん)でした。彼は、元々、後周という国の軍人でしたが7歳の皇帝から帝位を譲られ即位します。そして、中国統一のために戦いつづけます。
中国統一が叶ったのは、趙匡胤の死後、第2代の太宗の時代でした。979年のことです。
この宋の政治方針について見てみましょう。
趙匡胤の時代、彼の打ち出した政治の基本方針は、武断(ぶだん)政治から文治政治への転換でした。
ちょっと難しい言い回しになってしまいましたが、要するに武断政治から文治政治とは、武力を誇る人々から力を削ぎ、文官つまり頭のいい人に力を持たせようと考えたのです。
その例が節度使の権限の縮小です。また、難しい言葉が出てきましたが、節度使とは唐の時代に国境付近などを守らせた軍人です。彼らは、中央の皇帝の目が届かぬことをいいことに、力をつけ、唐の衰退の原因ともなりました。
こいつらはヤバイということで、節度使に欠員が出るたびに、そこに文官を補充していくのです。そして、節度使の下についていた兵士たちは、皇帝の軍隊として再編成していきます。ちなみに、このような軍を禁軍といいます。
また科挙の改革も行いました。科挙とは隋の時代から用いられてきた官僚になるための試験ですね。この科挙の最終試験ではなんと皇帝自らが直接試験官となります。試験を受ける側にとったら緊張しまくりですが、もし受かったら皇帝に合格させてもらえた!と大喜び。そして、皇帝と官僚の関係は密接になっていくというよく出来たシステムです。この皇帝自ら行う最終試験を殿試(でんし)といいます。殿が行った試験ですね。
これらにより、宋がめざす文治政治は強固なものになっていきます。
しかし、その一方で宋が建国したのとほぼ同時期に北方の遊牧諸民族の間でも建国の動きが起こっていました。モンゴル系の契丹(きったん)族の遼(りょう)。チベット系のタングート族の西夏(せいか)。ツングース系、女真族の金(きん)。これらの国が相次いで建国していきます。
こららの国は当然のようり宋の領土を狙いにいきますね。そこで侵入してきた遼や西夏と宋は、ある約束をします。銀や絹をあげるから攻めてこないでね・・・。
しかし、11世紀以降になると、この宋にも陰りが見えてきます。原因のひとつが遼や西夏との「銀や絹をあげるから攻めてこないで・・・」という約束。ただでさえ、農民らには重税がのしかかってくるのにプラス他国にあげる「おみやげ」分まで税がとられる・・・。
これに宋の政治家も頭を悩ませ、ある案を打ち出します。「兎に角、農民や小商人らの生活を安定させることが第一だ!」と立派な考えです。具体的な内容としては、農民、小商人らの税金を下げ、変わりに地主や豪商といわれる金持ちから税金をたくさん取ることにしようというのです。
実に立派な案でしたが、金持ち連中が黙っているわけもなく反発にあい、結果農民らの生活は変わらぬままでした。
そんな中、宋に金が攻め入ってきます。金が建国したのは1115年ですが、その10年後には遼を滅ぼし、翌年には宋に侵入。そして、中国の北半分はこの金に奪われてしまうのです。
宋の残党は南半分に逃げ延び1127年に国を立て直します。これが南宋です。ちなみに、それまでの宋を北宋といいます。
では、この南宋を滅ぼしたのは金なのか?というと違います。1279年、克R(がいさん)の戦い。あのフビライ=ハンの元によって滅ぼされるのでした。
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